斉明朝から天智朝へ

678 ~ 680

孝徳天皇の死後、位をついだのは皇祖母尊(すめおやのみこと)といわれた前天皇皇極であった(斉明天皇)。二度の即位(重祚(ちょうそ))は史上はじめてである。中大兄が政治上自由に活動するため、天皇とならなかったといわれるが、中大兄と間人皇女(孝徳の皇后)との間の不義の恋が即位を妨げたとする説もある(吉永登『万葉―歴史と文学のあいだ―』)。中大兄が即位せず、皇太子のままであったために、孝徳と阿倍小足媛(倉梯麻呂の娘)の間の子の有間皇子にも即位の可能性が残された。逆にいえば中大兄は有間皇子の粛正を考えねばならなかった。

 斉明朝はこうした暗雲を内に秘めて出発した。白雉末年の中大兄と孝徳のいざこざにこりたのか、元号は使用されなかった。斉明元年(六五五)の冬、飛鳥板蓋宮が焼け、小墾田(おはりだ)宮を造営する計画もあったが、飛鳥川原宮に移り、さらに翌年飛鳥岡本宮の造営に着手した。それと同時に多武峯に石垣をめぐらし宮をつくり、香久山の西より石上山に至る巨大な溝を掘った。当時の人びとからさえ「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」といわれた大土木工事であった。溝には三万人、垣には七万人が動員され、「石垣は作(な)っても自然にこわれるぞ」と非難の声さえあがった。建造中の岡本宮に火災が発生したのも、民衆の反感を示すものであった。

 斉明三年、有間皇子は一八歳となり、斉明・中大兄の有力な対抗者となった。しかも民衆の斉明・中大兄への反感が高まっている。有間は狂気を装って、中大兄の粛正から逃れようとする。しかし翌四年、中大兄側近の蘇我赤兄(石川麻呂の弟か)にすすめられて謀反を計画し、処刑された。

 斉明四年、有間皇子の事件と同じころ、阿倍比羅夫を将として、蝦夷の征圧にのり出した。『書紀』には五年・六年と蝦夷征討の記事がつづく。内政の不安を国外への軍事行動によって回避しようとしたのであろうか。しかし同じころ、朝鮮半島では情勢が急激に変化した。斉明六年(六六〇)唐・新羅の連合軍によって百済が滅ぼされた。百済の遺臣たちは各地で反抗したが、最も有力だったのが鬼室福信(きしつふくしん)である。福信は日本に人質として来ている百済王子豊璋の送還と、日本軍の来援を要請した。百済が完全に平定されれば、つぎは日本かもしれない。朝廷は国運をかけて救援軍を送ることにした。

 斉明七年(六六一)斉明・中大兄らも九州へ移り、救援軍を組織した。しかしその最中に斉明は崩じた。中大兄は即位する暇もなく、百済救援の仕事に追われた。全国から兵士が徴発され、六六二年第一軍五千人が出発した。唐・新羅連合軍も増員され、各地で激しい戦闘が行なわれた。六六三年日本は第二軍二万七千人を送り、中国本土からは唐の援軍が送りこまれた。八月二七・二八日、朝鮮南西部白村江の海陸で両軍(日本・百済軍と唐・新羅軍)は激突した。海水が血で染まったといわれ、日本・百済は敗れた。敗退する日本軍を追って、いつ唐・新羅軍が日本に来襲するかもしれない。九州での防備もさることながら、一刻も早く中大兄は大和に帰り、対応策を講じる必要がある。六六三年暮までには、中大兄は大和へもどったらしい。