天智朝と壬申の乱

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大和へもどった中大兄は、弟の大海人皇子の協力をえて、態勢の立て直しを計る。六六四年二月、冠位を改めて二六階とし諸氏族の再統制をはかり、一部の氏族には部民の復活を認め、氏ごとに氏の代表者の氏上(このかみ)を定めて氏族内部の団結を強化させた。これらの諸政策は、中大兄中心の朝廷へ各氏族を再結集させることを目的としていた。そののち防衛の第一線の北九州の防備を固め、瀬戸内沿岸に次つぎに城を築き、万一難波まで攻められた場合に備え高安城を築いた。六六七年三月に都を近江大津に移し、翌年正月ようやく中大兄は即位した。即位しないままで政治をすることを称制というが、天智称制は六年の長きにわたった(普通は称制何年といわず、斉明死去の翌年の六六二年から天智元年と数える)。

501 難波防衛拠点の高安城の調査(棚橋利光氏提供)

 即位の年の天智七年(六六八)には「近江令」が制定されたが、これについては疑問視する意見も多い(青木和夫「浄御原令と古代官僚制」『古代学』三―二)。しかし全国にわたる最初の戸籍『庚午年籍(こうごねんじゃく)』が、天智九年(六七〇)につくられたことは定説である(八木充『律令国家成立過程の研究』)。しかも唐は六六八年高句麗を滅ぼしたものの、新羅と次第に対立をはじめ、日本来襲の危機は遠のいていった。大津宮遷都後は、緊張した空気の中で、着々と中央集権国家へ向かった安定期でもあった。

 中大兄のよき協力者であった藤原鎌足は天智八年(六六九)死去したが、天智が位にいる限り暗雲のきざしは表面化しなかった。だが表面は穏やかでも、天智の後継者をめぐる争いは、大海人皇子と大友皇子(天智の子)の間にはじまっていた。

 天智一〇年正月、大友皇子を太政大臣、蘇我赤兄を左大臣、中臣金(503・不比等は当時一三才)を右大臣、蘇我果安・巨勢人・紀大人を御史大夫とした新政府が発足した。大海人皇子は除外された。八月、天智は病いとなり、一〇月天智は大海人に皇位を譲ろうとした。大海人は即座に断わり、出家して僧となり、吉野へ逃れた。「虎に翼をつけて野に放ったようなものだ」という人があったと『書紀』は記す。一二月三日、天智は崩じた。

503 『尊卑分脈』による中臣氏の系図

 翌六七二年(壬申)五月、大友皇子ら近江朝廷方が天智陵をつくるため、東国の人夫を動員しこれに武器を持たせているという報告が、大海人のもとに入った。放置しておけば彼らは軍勢となって、大海人は滅ぼされる。六月二二日挙兵を決意、二四日吉野を出発、二五日大津宮から駆けつけた高市皇子(大海人の長子)と伊賀で合流し伊勢に入り、二六日大津京から来た大津皇子(大海人の子)と合流した。すでに先遣隊は伊勢・美濃などの国司を味方につけていた。

 近江朝廷方は大海人の行動に衝撃をうけて動揺し、全国の兵を集めて大軍で大海人の征圧をねらった。六月二七日、尾張国司が大海人方についた。同二九日、大伴吹負(ふけい)は漢氏とともに飛鳥古京を急襲し、大和一帯を征圧して大海人に味方した。七月二日大海人軍の進撃がはじまった。一隊は伊勢・伊賀を通り、大和の大伴吹負と連絡、南から大津宮へ迫る。他の一隊は不破から琵琶湖東岸を通り、東から大津宮を攻める。琵琶湖を迂回し西岸を通り北方より迫る分遣隊も出された。近江路の戦は大海人の楽勝で、七月一三日には瀬田川まで進軍した。しかし大和の戦は楽ではなかった。各地で激戦がくりかえされ、南河内でも戦があった(後述)。七月六日、大和盆地中央での決戦で、ようやく大海人方は勝利し、近江軍を北方へ追撃できるようになった。七月二二日、両軍は瀬田川で最後の決戦をむかえ、二三日大海人は大津宮を陥して、全合戦に戦利した。大友皇子は自殺し、重臣の蘇我果安は戦死、中臣金は死刑、蘇我赤兄・巨勢人は流罪、紀大人は赦免された。

 大海人は翌六七三年二月、飛鳥浄御原(きよみがはら)に即位し、天武天皇となった。古代史上最大の内乱といわれる壬申の乱は、こうして終わった。