南河内の戦場

683 ~ 684

壬申の乱で南河内が戦場となったのは、飛鳥古京を陥した大伴吹負軍に対する、近江朝廷方の軍の一隊が、河内から大和を攻めようとしたからである。古京占領後二日、大伴吹負は奈良盆地中央の下津道を通り、北上し大津宮を攻めようとした。ところがその途中で、河内から近江軍が攻めてくる報を受け、坂本財(たから)などを長とする一隊を竜田道(亀の瀬越え、大和川北沿い)へ、佐味少麻呂の一隊を大坂(二上山北麓の穴虫越え)へ、鴨蝦夷を石手道(二上山南麓の竹内越え)へ派遣した。この三軍のうち石手道の鴨蝦夷の状況がわかれば面白いのだが、『書紀』は坂本財の軍の状況しか記さない。坂本軍は七月一日の夜は平石野に宿ろうとした。平石野を河南町平石とする説もある(大西源一「壬申の乱地理考」『歴史地理』二一―三・四・六、佐伯有義校注『日本書紀』)が、石手道よりさらに南であり疑問である。平石野で坂本軍は、高安城(天智が唐・新羅の来襲に備えて信貴山に築城)に近江軍の先鋒がいると聞き、これを陥して駐留した。

 翌七月二日未明、高安城より西方をみると大津・丹比道から近江軍が進軍してくるのがみえた。坂本軍は高安城より下り、衛我(えが)河(石川)を渡り、近江軍と対戦する。今の道明寺の付近であろう(直木孝次郎『壬申の乱』)。近江軍の将は壱伎韓国である。両軍の激突を目前に、河内国司来目塩籠(くめのしおこ)は動こうとしない。少数の坂本軍は次第に劣勢となり、軍を懼坂(かしこさか)に引きあげた。懼坂は佐味少麻呂の守る大坂の北方にあたり、紀大音(おおと)が守っていたが、これと合流した。壱伎韓国の近江軍は追撃せず、河内国司来目塩籠の詰問に日を費やした。来目塩籠は大海人方に味方する考えだったらしく、詰問されて自殺した。

 翌五日、近江軍は大坂を越えて大和に入った。河内国府(道明寺)から石川沿いにのぼり、磯長谷を経て竹内峠を越えたのであろう。だが竹内峠を大和へ越えた当麻の衢(たぎまのちまた)には、態勢を立て直し東国からの援軍をえた大伴吹負の本隊がかけつけた。吹負の軍勢は騎馬隊の活躍で近江軍を破った。壱伎韓国は単身逃亡をはかり、行方をくらました(502)。

502 壬申の乱要図(直木『壬申の乱』より)

 大伴吹負はこの後、北方より進軍してくる近江軍を奈良盆地中央で破って、大和一帯を征圧した。七月二二日、吹負は竹内峠を越え、大和から難波に凱旋した。それにともない南河内の地にも、大海人の勝利が決定的なことが伝えられたにちがいない。