壬申の乱に勝利した大海人皇子は、即位して天武天皇となるが、天武が卓越した地位についたことは明らかである。大友皇子とともに近江朝廷を構成した蘇我・中臣・巨勢など旧大豪族が没落した。天皇を中心とした中央集権の国家体制が樹立された。後はこれを不動の体制に仕立てあげる作業が残されている。天武朝一四年間の歴史はそれに費やされたといっても過言ではない。中央官制を整備し、皇族を含め諸氏族を統制し、兵制を整備し、神道・仏教を統制した。歴史書の編集にも着手し、天皇の立場の強化をはかった。そうしたことの総まとめの意味をもつのが、法令の編纂である。天武一〇年(六八一)二月、「飛鳥浄御原律令」の編集に着手した。天武一五年、朱鳥の元号を用いたが、九月天武は崩じた。律令はまだ完成せず、持統三年(六八九)ようやく完成した(持統の称制も三年あるが、朱鳥元年の次年を持統元年とする)。
天武の葬儀は盛大で、二年三カ月という異例の長期間、殯宮(もがりのみや)が営まれた。持統二年(六八八)一一月一一日ようやく葬儀が終わり、檜隈大内(ひのくまおおうち)陵に葬られた。この間に天武の皇后鸕野(うの)は、有力な皇位継承者大津皇子を粛正した(504)。鸕野の子の草壁皇子が即位するものと考えられたが、持統三年四月死去した。孫の軽皇子は七歳である。天武には(504)に記される以外に多数の皇子がおり、皇位が他の血統に移る可能性もある。鸕野はこう考えて自ら即位することにした。持統四年正月、飛鳥浄御原に即位した(持統天皇)。
即位前年に完成した「飛鳥浄御原令」は、持統の治世とともに施行された。「浄御原令」は現存しないが、後の大宝令は「浄御原朝廷をもって准正となす」と記されているから、大宝令に類似したものと思われる。「浄御原律」については、「令」ほどにも内容はわかっていない。だが中国に見習った律令が国の基本法として成立したのは、天武・持統朝であったことは確かである。このように持統朝は、天武朝の継承の時代ともいえるのである。新たに始められたものとしては、本格的な都城の藤原京の造営があった。従来の宮は、天皇の居所たる宮殿と、それに付属するわずかな建物があるだけで、代々の天皇ごとに造営された。この藤原京の造営も天武の意志とみる説もある(村井康彦『古京年代記』)。
持統は一一年(六九七)、位を軽皇子に譲り太上天皇となった。軽皇子は文武天皇であるが、即位後五年「大宝律令」を完成させ、翌年施行しここに律令国家体制は完成した。文武五年(七〇一)には大宝の元号を制定し、それ以後元号の使用は継続している。また天武・持統朝には中断していた遣唐使を復活するなど、充実した時期でもあった。