令制における地方行政組織について、大化二年の改新詔に国―郡―里の行政区画の名がみえ、里は五〇戸から成ると記され、これを根拠にして大化前代の朝廷の直轄地に三〇戸一里制が行なわれ、それが大化改新で五〇戸に改められたと、曽我部静雄氏は説いた(「我が律令時代の里と郷について」『史林』三三―五)。しかし行政区画の郡の名称について、大化改新詔に「評」と記されていたのであり、大宝令によって評が郡に改められたとする意見が出された(井上光貞『大化改新』)。さらに里の戸数に関し、改新詔の浄御原令による潤色説の立場から五〇戸一里制を浄御原令までさげる見解が出されている(弥永貞三「大化大宝間の造籍について」『名古屋大学文学部十周年記念論集』、八木充「律令制村落の形成」『日本史研究』五二、平田耿二「庚寅の編籍について」『史学雑誌』七一―七)。
国・郡・里制は霊亀元年(七一五)に改められ、これまでの里を郷とし、郷の下に新たに二~三の里をおく郷里制(国―郡―郷―里)が施行された。
国郡里制の里と郷里制の里のいずれが自然村落的性格が強いかとの議論では、郷里制の里を自然村落であるとする説は、五〇戸一里制が自然村落を無視して機械的に里(国郡里の里)を置いた関係で農村の実情に合わず、地方行政に多くの不便が生じたので、新たに郷里制が実施されたと主張した(清水三男「奈良時代の村」『上代の土地関係』)。ところで「調庸墨書銘」や「優婆塞貢進解」などにみられる行政区画の書きかた(某国某郡某郷某里)を年代順に並べると、郷里制の里は施行時(霊亀元年)よりわずか二五年ほどで消滅し、天平一一年(七三九)と一二年の交わりごろに国郡郷制となっていたことが明らかにされ、もし郷里制の里が自然村落ならば、わずかの期間に行なわれただけで廃止されるはずはなく、したがって郷里制下の里こそ擬制的色彩の濃いものであり、逆にさきの国郡里制の里の方が自然村落に近い性格をもつという見解が出された(岸俊男「古代村落と郷里制」・「古代後期の社会機構」『日本古代籍帳の研究』)。議論はさらにつづき、郷里制の里を自然村落的なものとする考えかたも否定できないとし、郷の下に存在した自然な小村落を基礎に法制化したものが郷里制の里であるとの説も出され(直木孝次郎「桓武朝における政治権力の基盤」『奈良時代史の諸問題』)、結論はまだ出ていない。ただ霊亀元年(七一五)の郷里制実施は、郷の下にさらに小さい行政区画の里を置いて律令政治を地方に一段と浸透させようとしたものであったとも考えられ、その郷里制がわずか二五年の短期間に行なわれなくなったのは、班田農民のパワーが律令国家の新制施行を押し返したためであると解釈できよう。
なお奈良時代の史料に村という名称があらわれ、固有名詞的な村名がみえることが注目され、それが自然村落であり、そこにおける農民の生活を無視することができなかったためであるとの見解が提起され(直木孝次郎「前掲論文」)、これに対し、その村は地方行政組織の不徹底にもとづく未編戸村落であるとする見解もみられ(八木充「奈良時代の村について」『続日本紀研究』七―九、同「律令制村落の形成」前掲)、問題はまだ解決されていない。