富田林市域は河内国の石川郡と錦部郡から成っている。石川郡の北は古市・安宿郡、南は錦部郡、西は丹比郡、東は大和国宇智・忍海・葛上・葛下郡に接している。
史料にみえる石川郡の初見は、『続日本紀』(以下『続紀』と略称することがある)慶雲三年(七〇六)五月一五日条である。河内国石河郡人、河辺朝臣乙麻呂が白鳩を献上し、これにより乙麻呂は絁五疋・糸十絇・布二〇端・鍬二〇口・正税三〇〇束を賜わったとある。黒板勝美編『国史大系』の『続日本紀』は、宮内庁書陵部所蔵谷森健男氏旧蔵本を底本とし、これには「石河郡」とあるが、頭注に「印本」と『日本紀略』は「河」を「川」に作ると記す(佐伯有義校注『続日本紀』〔朝日新聞社刊〕は、明暦三年〔一六五七〕立野春節校訂版本を底本とし、これは『国史大系』のいう「印本」にあたる)。
石川郡の名は、『続紀』ではついで天平勝宝八歳(七五六)七月一八日条に「河内国石川郡の人、漢人広橋・漢人刀自売ら十三人に山背忌寸の姓を賜う」と記される。漢人広橋・漢人刀自売の名はここだけにしかみえない。
石川郡の名は、『続紀』以外では天平勝宝二年(七五〇)三月二三日の佐伯諸上・山代伊美吉大村の勘籍、年月日欠の草原乙麻呂の勘籍、延暦一九年(八〇〇)六月二一日の「郡司解案」、承和四年(八三七)三月三日の『観心寺縁起実録帳写』(以下『観心寺縁起帳写』と略称)、元慶七年(八八三)九月一五日の『観心寺勘録縁起資財帳』(以下『観心寺資財帳』と略称)などにみえる。
錦部郡は河内国の西南端をしめ、山間の地帯で、石川上流域に発生した集落を基調とする。当郡は、東と北では河内国の石川郡と丹比郡につらなり、西では和泉国の大鳥郡と和泉郡に、南では紀伊国伊都郡と大和国宇智郡に境を接した。
錦部郡の名の初見は『続紀』の文武天皇三年(六九九)三月九日条で、「河内国、白鳩を献ず。詔して錦部郡一年の租役を免ず。又、瑞を獲る人、犬養広麻呂の戸に復三年を給い、又、畿内の徒罪已下を赦す」とある。このことについては、後に詳しくふれよう(「無カバネ姓の人びと」)。
『続紀』において錦部郡のみえるつぎの例は、天平神護元年(七六五)一二月一九日条で、従八位上錦部毘登石次・正八位下錦部毘登大嶋・大初位下錦部毘登真公・大初位下錦部毘登真公ら二六人に、錦部連を賜姓したとみえる。錦部氏がこの郡に多数居住していたこと、この氏族名が郡名となったのであろうこと、錦部は錦織りの技術によって古来より朝廷に奉仕した名残りのためか位階を与えられた者が多いことなどを知りうる。毘登のカバネ(天平勝宝九歳〔七五七〕に首・史のカバネを変更し、宝亀元年〔七七〇〕九月三日もとの首・史に復した)から連のカバネに昇格したのである。
錦部郡の名のみえる史料として注目されるものに、『観心寺縁起帳写』と『観心寺資財帳』がある。観心寺は役小角の開創と伝えられ、弘仁年間(八一〇~八二三)に空海によって再興されたと称し、河内国の古刹として多くの文化財に富む寺である。『観心寺縁起帳写』の冒頭には、観心寺の所在地が錦部郡・石川郡にまたがることを「寺壱院は河内国錦部・石川両郡の南山中に在り」と記し、ほかにも錦部郡の名は『同帳写』にみえる。『観心寺資財帳』の冒頭にも同様に、寺の位置について「寺壱院は、河内国錦部郡以南の山中に在り」と記している。前者は錦部・石川二郡に寺がまたがるように記し、後者は錦部郡にあると記して相違するが、前者の記述は寺の中心部が錦部郡で、所有地などが石川郡にまたがるという意味と理解すれば、後者と矛盾しない。