大宝令では郡のすぐ下の行政単位は里であるが、里は「凡(およ)そ五〇戸を以て里と為(せ)よ。里毎に長一人を置け」(戸令)と決められていた。「凡そ」は「すべて」という意味で、必ず五〇戸を一里としたのである。ただし五〇戸を相当に越える場合は、余戸として一里を設けた(たとえば前述の石川・錦部郡の余戸郷)。少しだけの場合には戸を解体して他の戸につけて、五〇にそろえたという。
この場合の戸は大家族であり(郷戸(ごうこ)という)、通常我われの考える家族(房戸という)を二、三戸含んでいる。この郷戸や房戸がどのような意味を持つかについては、見解が一致していない(直木孝次郎『奈良時代史の諸問題』)。いずれにせよ口分田の班給や税の徴収は、郷戸または房戸が一単位となって行なわれる。令では郷戸が単位とされるが、ある時期には房戸が単位とする説(岡本堅次「古代籍帳の郷戸と房戸について」『山形大学紀要』二)もある。このかぎりでは郷戸・房戸ともに、当時の現実の家族の姿をそのまま表しているのではない。
この時代の農民は数個の家(竪穴式住居)でひとつのまとまりをつくっていた。そのまとまりは父方か母方の血縁によっていた。この集団はとなりあう別の集団とやはり、父方か母方の血縁でつながっていた。こうして付近一帯の住民は皆、なんらかの血縁上のつながりを持ち、アメーバのようにどこで切っても加えても、なんらかの血縁集団ができる。だからこそ律令国家の方針どおり五〇戸の集団もできる。このように考えるのは、早川庄八説(『律令国家』)であるが、妥当ではなかろうか。
班田農民はこうした家族で生活し、原則として六歳になると口分田を、男は二段、女は一段一二〇歩を与えられた。口分田を班給された農民は、どの程度の生活をすることができたであろうか。「田令義解」によれば、口分田からとれる稲は一束から米五升を得ると記される。当時の一升は現在の約四合にあたり、一束から今量の二升、段別五〇束から今量の一石の収穫があることとなる。そこから田租と種籾料を引くと、段別収穫量の内、農民の手もとに食糧として残るのは九斗三升となるという。さらにこれを男子一人あたりの口分田二段にあてると、一人の年間保有食糧とすることができるのは一石八斗六升で、一日五合の割となる。女子の口分田は男子の三分二であるから、女子一人一日の食糧は約三合三勺となる。しかし、口分田支給には長幼による差別がないから、もし受田額の全部が町別五〇〇束の収穫があるならば、家族は人別平均して日に四合余の食糧を確保することとなる。しかし、田品の混在割合は、上田一に対し、中・下・下々各二、とみとめられていた(『政事要略』)。これらを総合すると、口分田の収穫量は「田令義解」にみえるものよりもずっと低く、農民の純食糧は大きく不足するものであり、口分田の価値は高く評価できないとされる(沢田吾一『奈良朝民政経済の数的研究』)。
しかし、この経営計算でいくと、下田・下々田では農民はほとんど生活を維持し得なくなり、事実としてありえなかったような生活状況を部分的には想定する結果となっている。ただしこの沢田説については、口分田などの生産力をどうみるかについて異論も出されているので、いま少しくわしくみておこう。