弘仁一二年(八二一)六月四日の官符によれば、交野・丹比両郡は一町歩二〇〇~三〇〇束の実収しかない悪田に対して、口分田が倍給された。これによると、当時二〇〇~三〇〇束収穫の田が悪田とされていたことが明らかである。ところが沢田説(沢田吾一『前掲書』)によると、当時全国の田の七分の四は下田か下々田であり、そのおのおのが三〇〇束または一五〇束の実収のはずである。それが事実ならば、河内国両郡はこと新しく申請するはずがないし、また政府に受理されることもあり得ないであろう。ところが、それが行なわれたことから考えると、三〇〇束または一五〇束という悪田はじっさいには稀にしか存在しなかったといわねばならない。
もう一つの証拠は越前国(福井県)坂井郡にあった東大寺領桑原荘の文書である。天平勝宝七年(七五五)坂井郡大領の生江臣(いくえのおみ)東人の援助で設けられたこの荘園は、原野が約一〇〇町で、寺家が毎年開墾し、田になったところを農民に貸して耕作させた。勝宝八年と九年とでは、地子(年貢)は町別八〇束と六〇束の二種である。田令の規定では公田地子は収穫量の五分の一であるところからみて、桑原荘は町別四〇〇束の中田と三〇〇束の下田と混在していたことになる。これは一般に中田と下田が多かった証になるが、すぐに桑原荘の実収穫を四〇〇束または三〇〇束としてよいかは問題である。というのは、一律に地子は五分の一とすると、農民の手取りは上田にいちじるしく有利で、田品がくだるほど不利となり、下々田では種籾・功食(労賃)など必要経費を引くと何も残らないだけでなく、三〇~四〇束の損を生じる。このような悪条件のもとでどうして二割(三〇束)の地子を徴することができるだろうか。
奈良時代には、人口増加に対処する方策として開墾が急がれ、労力はかなり高く評価されたはずで、中田・下田・下々田を耕した者が上田と同率の地子を承知したと考えられない。耕作者は、田品がくだるにしたがって年貢率がさがり、手取りでは上田と下々田とのあいだでも相違がないのでなければ、田品の低い田の耕作を承知しなかったであろう。そこで、上田~下田の実収差が、年貢差である二〇束(上・中)二〇束(中・下)三〇束(下・下々)内外であったとすると、剰田(じょうでん)の地子取立は円満であったと考えられる。またたとえ口分田のうちに七分の四の割で下田・下々田が存在していても、右の実収量であったとするならば、農民の純食糧を維持できないことはないが、実収三〇〇束以下の口分田は易田(えきでん)として取り扱われており(『類聚三代格』弘仁一二年六月四日官符)、ふつうの口分田の実収はそれ以上であることは疑いない。
下々田の実収量を三〇〇束以上と規定したことのつぎに注意されるのは、元慶五年二月八日官符(『類聚三代格』)が、官田の田品を改定し、上田三二〇束としたのに対して、中田は二〇束減の三〇〇束としたことである。この耕作者に与えられる営料は田品に関係なく、一律町別一二〇束で、規定の収穫との差は政府が収得するから、もし上田・中田の実収差二〇束内外とすると、官田運営の円滑を期待しておこなったこの改定は目的を達する。もしそうでなかったら、上田耕作は中田耕作より、いちじるしく有利であったはずで、農民は中田耕作を承知しなかったであろう。
田品による地子の差が実収差とほぼ一致するという推定は、天平宝字元年(七五七)一二月二三日の越前国使等解(『大日本古文書』四―二五三)で裏づけられる。これは同年秋、雨風が多く、桑原荘の収穫のとぼしかったことを報告しており、一束の稲から得た米は四升~三升であった。前掲官符に河内の悪田が三〇〇~二〇〇束とあるのとならんで注目される。田令によれば、口分田が上田の場合は町別五〇〇束で、一束から米五升が得られるが、中田の町別四〇〇束はどういう状態であったか。稲が成長するとき株の分かれが少なかったのか、それとも結実が少なかったのであるか、明記したものはない。今日の水田のじっさいより推測すると、結実が少なかったと考えるのがより妥当で、そうすると、中田は束別四升、下田は三升が通例であって、中田・下田だけであった桑原荘としては、とくに訴えなければならぬほどのことでないはずである。それがこと新しくとりあげられたのは、中田・下田であっても束別四升以上の結実があったことを示している。このようにみてくると、奈良時代の口分田の価値は、沢田説が強調するほどに価値の低いものでなく、そうかといって律令政治を賛美する論者がいうほど生産力の高いものでもなく、旧来の両者の評価は極端に傾いていた(赤松俊秀「正倉院文書について」東方学術協会編『正倉院文化』)とみるのが妥当である。