農民生活の実態

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前項にみたような重い負担は、生産力の低い当時の農民生活を窮迫させる主因であった。農民の窮乏を物語る史料が多くみられるが、しかし、農民のすべての階層にわたってそうであったのではない。当時の農民の階層は(1)政治力、財力をそなえ、自分の家族労働力の中に多数の奴婢労働力をもち、私有地も多量に有する層で、郡司層に代表される地方豪族クラスの農民、(2)自分の家族労働力により耕作する階層で、少量の墾田も有する農民(中堅農民)、(3)広汎に存在する貧窮農民で、大土地所有者などの主たる労働力提供者、以上の三階層に分けられる。もちろん、(3)の農民が最も多く、前掲の諸負担で生活を破壊され、窮迫におちいる農民は、まさにこうした階層であった。(1)の階層には、課役免除の特典を与えられる有位者も多く、その点を除いても、彼らのもつ財力からするとき、ほとんど問題にならない負担であった。律令国家の過重な負担にたえかねた農民の中には、家や田畠を捨てて浮浪や逃亡者になる者も生じ、それが大きな社会問題ともなった。浮浪や逃亡以外にも班田農民は、限度一ぱいの所で生活していたから、いったん病気が流行しはじめると手がつけられなかった。その一例を「河内国大税負死亡入帳」からみておこう。天平七年(七三五)九州から流行しはじめた疱瘡は飢饉をひきおこし、その災害はひろがって都と地方を震駭(しんがい)させた。天平九年(七三七)の「河内国大税負死亡人帳」(『大日本古文書』二四―五九・513)は、飢疫のために同年に死んだ農民の出挙稲未納額と死没年月日を記している。死者は七人みえ、出挙稲未納額は三〇束ないし四〇束で、未納のまま死んだこれらの人の年齢は二〇歳ないし六一歳で、死没年月日は天平九年二月一〇日から九月五日までとなっている。河内の国のどこの地域の農民かは明らかでないが、富田林地方もその疫病と飢饉と死の災害から例外でない。班田制下の農民は租税の負担の重さのほか、このように疫病と飢饉によって痛めつけられ、医療技術の未発達であったので、疱瘡ぐらいの流行病で生命を失っている。死亡者の多いのは八月であり、都の大官では参議式部卿兼大宰帥正三位藤原宇合が同月に没している。

513 「河内国大税負死亡人帳」(天平九年)より
死者 年齢 未納 死亡月日 戸主
物部刀良 61 40 6.10 伊我臣入鹿
民首髪長売 59 36 7.10 海犬養麻呂
日下部姉女 54 30 8.10 牛鹿部県
酒人袁尓売 20 30 8.15 牛鹿部県
車持連竜麻呂 52 40 2.10 本人
酒人長麻呂 52 36 8.10 本人
日下部牟良自 49 36 9.5 日下部吉師首麻呂

 これ以外にも少しの天候不順でも、大きな飢饉となった。『続紀』の限りでも、つぎの一二回にわたって史料がある。

 ①慶雲三年(七〇六)二月一六日「河内・摂津・出雲・安芸・紀伊・讃岐・伊予七国、飢う。並にこれを賑恤す」

 ②慶雲三年四月二九日「河内・出雲・備前・安芸・淡路・讃岐・伊予等の国飢疫す。使を遣はしてこれを賑恤せしむ」

 ③和銅二年(七〇九)五月二〇日「河内・摂津・山背・伊豆・甲斐五国、連雨、苗を損う」

 ④天平五年(七三三)二月一六日「大倭・河内五穀登らず。百姓飢饉す、並びに賑給を加ふ」

 ⑤天平一九年(七四七)二月二二日「大倭・河内・摂津・近江・伊勢・志摩・丹波・出雲・播磨・美作・備前・備中・紀伊・淡路・讃岐十五国飢饉す。因りて賑恤を加ふ」

 ⑥天平二〇年(七四八)七月三〇日「河内・出雲二国飢う。これを賑恤す」

 ⑦天平宝字七年(七六三)五月一六日「河内国、飢う。これを賑給す」

 ⑧天平神護二年(七六六)六月一一日「河内国、飢う。これを賑給す」

 ⑨宝亀三年(七七二)八月「この月、朔日より雨ふり、加ふるに大風を以ってす。河内国茨田堤六處、渋川堤十一處、志紀郡五處並びに決す」

 ⑩宝亀五年(七七四)五月四日「河内国、飢う。これを賑給す」

 ⑪宝亀六年(七七五)四月七日「河内・摂津両国鼠あり、五穀及び草木を食らふ。使を遣はし、幣を諸国群神に奉らしむ」

 ⑫延暦四年(七八五)九月一〇日「河内国言す。洪水汎溢す。百姓漂蕩して或ひは船に乗り、或ひは堤上に寓し、粮食絶えて乏し。艱苦まことに深しと。是に於て、使を遣はし監巡せしめ、兼ねて賑給を加ふ」

 この一二回以外にも、小規模なものは、おそらく数えきれなかったであろう。このことからだけでも、班田農民の生活の苦しさは、容易に推測できよう。