無カバネ姓の人びと

707 ~ 711

前項の漢人根麻呂は姓の分類では、(5)無カバネ姓で村落の上層に多い姓である。彼は草原首東人の戸口であったが、草原首は(1)のカバネ姓で村落の支配層に位置する。草原の姓のつく者は、他に史料(古代三六)の草原乙麻呂がしられる。草原乙麻呂は無カバネ姓で、一般農民であろうから、彼も仕丁だったかもしれない。史料(古代三六)は天平勝宝二年(七五〇)のものと推定され、乙麻呂の当時の戸主が美都伎麻呂で、天平一二・一八年の戸主が久遅良(くじら)天平五年の戸主が大麻呂である。彼らの名は史料(古代三六)以外には、しられていない。乙麻呂については、天平宝字七年(七六三)一月一四日付の、東大寺造物所に服仕した舎人の一覧表にもみえる(『大日本古文書』一六―三一八)。しかし乙麻呂は史料(古代三六)から五一歳であったことがわかり、同一人であるかどうか疑問である。舎人は下級官人の一種で、写経所では書記・会計・遣使・監督経営などに従事した(井上薫『日本古代の政治と宗教』)。

 草原のつく人名は、他には草原嶋守がある。彼は天平宝字頃、十五斛の炭を大殿御畠倉に宿置した旨、造東大寺焼炭所に啓上している(『大日本古文書』一五―四六七)。あるいは彼も石川郡の人だったのかもしれない。

 奈良時代の石川郡に関連する人名で無カバネ姓のものは他に嶋吉事がある。史料(古代二八)は彼の勘籍である。天平勝宝二年(七五〇)三月一九日、彼は二六歳で、嶋古麻呂の戸口であった。天平一二・一八年の戸主は嶋麻呂、養老五・神亀四・天平五年の戸主は嶋千嶋である。嶋千嶋の房戸で、吉事の父にあたるのが嶋安麻呂である。

 嶋氏に大化前代には、嶋首―嶋―嶋人という構成で、造園を業としたとする説もある(直木孝次郎『日本古代国家の構造』)。『姓氏録』は嶋首を未定雑姓摂津国に、嶋史を右京諸蕃下に「出自高麗国和與也」とのせる。石川郡と外来系氏族の関係の深さからみて、嶋吉事らも外来系譜につながるのかもしれない。

 錦部郡の無カバネ姓の人物としては、犬養広麻呂をあげることができる。

 『続紀』の文武天皇三年(六九九)三月九日条に、河内国が白鳩を献上し、詔が出されて錦部郡の一年間の租役を免除し、祥瑞を得た犬養広麻呂の戸に復三年を給し、また畿内の徒以下の罪を赦免した、と記される(古代一七)。とくに錦部郡の租役を免除しているところから推察して犬養広麻呂は錦部郡に住んでいたと考えられるが、彼は『続紀』ではこの条にみえるだけで、彼に関してくわしいことはわからない。天平五年(七三三)ころの作成とされる「山背国愛宕郡計帳」にみえる犬養広麻呂は八歳であるから、錦部郡の犬養広麻呂とは別人であることはいうまでもない。

 佐伯有義校注の『続日本紀』の頭注に錦部郡について「今南河内郡に入る、同郡鳩原村(今川上村大字)白鳩を出しし處と云」と記しており、恐らくこの頭注のとおりであると考えられ、鳩原村は現在は河内長野市に属する。

 「職員令」に治部省の卿の職掌として、本姓(かばね)・継嗣(五位以上の嫡子)・婚姻(五位以上の嫡妻)・祥瑞・喪葬・贈賻(官位を追贈し、財貨を授けること)・国忌(先皇の崩日)・諱(皇祖以下の名号)・諸蕃朝聘(国君が来朝することを朝といい、卿大夫を派遣することを聘という)のことがあげられており、祥瑞は中務(なかつかさ)省が取扱うことに定められている。『延喜式』の治部省の条項では、祥瑞が一番先に記されており、律令国家では祥瑞の取扱いが重んじられていたことが知られ、祥瑞はつぎのように大瑞・上瑞・中瑞・下瑞の四等級に分けられていた。

 <大瑞> 景星・慶雲・黄星真人・河精・麟・鳳・鸞・比翼鳥・同心鳥・永楽鳥・富貴・吉利・神亀・龍・騶虞・白澤・神馬・周帀(スサフ)・角端・解廌・比肩獣・六足獣・茲白・白象・一角獣・天鹿・鱉封・酋耳・豹犬・露犬・玄珪明珠・玉英・山稱萬歳・慶山・山車・象車・鳥車・根車・金車・朱草・屈軼・蓂莢・平露・萐甫(ササフ)・蒿柱・金牛・玉馬・玉猛獣・玉甕・錦甕・瓶甕・丹甑・醴泉・浪井・河水清・河水五色・江水五色・海水不揚波

 <上瑞> 三角獣・白狼・赤羆・赤熊・赤狡・赤兎・九尾狐・白狐・玄狐・白鹿・白麞・兕・玄鶴・青鳥・赤烏・三足烏・赤燕・赤雀・比目魚・甘露・廟生祥木・福草・禮草・萍實・大貝・白玉赤文・紫玉・玉羊・玉亀・玉牟・玉典・玉璜・黄銀・金勝・珊瑚鈎・駭鶏犀及戴通・璧琉璃・鶏趣

<中瑞> 白鳩・白烏・蒼烏・白睾・白雉・雉白首・翠烏・黄鵠・小鳥生大鳥・朱雁・五色雁・白雀・赤狐・黄羆・青熊・玄貉・赤豹・白兎・九眞奇獣・流黄出谷・澤谷生・白玉瑯玕景・碧石潤色・地出珠・陵出黒丹・威委・威緌・延喜・福并・紫脱常生・賓連達・善茅・草木長生

<下瑞> 秬秠・嘉禾・芝草・華平・人参生・竹實満・椒桂合生・木連理・嘉木・戴角麀鹿・駮麀・神雀・冠雀・黒雉・白鵲

 これらの祥瑞の品目は、日本独自のものというより、唐の『開元令』の規定を準用したという性格が強い(布施弥平治『明法道の研究』)。ただ『開元令』では令の条文として品名が明示されているのに、日本の『大宝令』や『養老令』にはそのような条文はない。日本の祥瑞制度が整備される一つの画期は、養老年間(七二〇ころ)にあり、天皇の宗教的性格を前提とした(東野治之「飛鳥奈良期の祥瑞思想」『日本歴史』二五九)ためであろう。

 具体的な祥瑞についての取扱いをみると、祥瑞出現を知った国郡司は治部省に報告する。治部省はその祥瑞を大瑞・上瑞などとランク付けし、大瑞のみは即刻太政官に報告するが、上瑞以下は年毎に一二月にまとめて報告することになっていた。しかしこれは養老年間以降のことで、それ以前はどうであったかは不明である。前述の犬養広麻呂の場合や後述の河辺朝臣乙麻呂の場合は、白鳩という中瑞相当の祥瑞であるのに、三月一九日条・五月一五日条にみえるから、祥瑞が出現すれば随時報告されたらしい。

514 祥瑞を得たと推定される川野辺・鳩原

 祥瑞として献上された物は、生きている場合には「その本性を遂げ」させるため「これを山野に放」った(『養老令』儀制令祥瑞条)。また祥瑞を出した国郡司は考課(勤務評定)の際の参考とされたから、国郡司も祥瑞については注目していた(『養老令』考課令殊功異行条)。

 犬養広麻呂の白鳩献上より七年後の慶雲三年(七〇六)五月一五日、石川郡の河辺朝臣乙麻呂が白鳩を献上したことは、すでに述べた(「史料にみえる石川郡・錦部郡」)。乙麻呂は『続紀』のこの条のみにみえるだけで、石川郡内のどこの人かわからない。河辺朝臣については、乙麻呂のほかに智麻呂と嶋守の名が知られる。智麻呂は『続紀』養老七年(七二三)正月一〇日条に、嶋守は同宝亀九年(七七八)正月一六日条に、いずれも正六位上から従五位下に叙されたことが記されている。この記事以外に両人についての記載はないから、乙麻呂との関係も一切不明である。河辺を「かわのべ」とみれば、石川郡川野辺(千早赤阪村)とあるいは関係するかもしれない。

 文武三年に白鳩を献じた犬養広麻呂の白鳩を得た地が鳩原とすると、川野辺とは谷筋はちがうものの連接した地域であるし、乙麻呂の白鳩献上は広麻呂のそれに刺激されたのであろう。乙麻呂のうけた褒賞が広麻呂のそれよりも劣り、慶雲三年の場合には石川郡や畿内に賞がおよばなかったのは、二度目の祥瑞献上のためであろう。