条里制

712 ~ 713

条里制が大化以前に実施されたか、否かは多くの論議を呼んできたが、ここでは、その実施時期を論ずる資料をもたないから、古代の土地制度たる条里制が、富田林市域、あるいは、石川谷にどのように施行され、今にその地割を残しているか、それがどのような意義を有するかを考えてみる。

 条里制はしばしば、集権的な政府による統一的な事業として考えられ、その遺構分布は先進的な農業地域に卓越するとされる。たしかに、東北から九州まで、基本的には、画一的な一町四方の方格地割を残したこと、またその遺構の分布を考えるとそれは正しい。しかし、実際にそれを行なうについては、大和盆地や湖東平野のような規模の大きい統一的な計画の可能な場合もあれば、石川谷のように、河谷ぞいに多様な段丘面をもつ場合もあり、おのおのの条件は異なっていた。したがって、郡単位で実施されたとはいっても、石川郡の例でも、いくつかの工区が設けられて、施行単位を異にしていたことが認められる。この条里施行工区は自然条件に規定される性格が強いが、たとえば、同一郡内における実際的な小支配集団の存在を示唆するものかもしれない。

 いずれにしろ、条里地割の存在は当時の土地制度あるいは村落制度を示すだけではなく、政治権力のあり方、さらには、農業生産技術や生産組織、土木技術など多くの面で、古代史の解明に寄与するのである。

 条里地割の基礎単位は一町(約一〇八メートル)四方の方形の土地であり、「坪」と呼ばれた。縦横六町ずつの、すなわち、三六坪の方形の土地は「里」と呼ばれ、基本的な集落単位を収容したとされる。「里」の内部の三六の坪は、一ノ坪、二ノ坪から三六ノ坪に至るまで、一般に数詞坪地名が付された。一から三六までの配列には千鳥式と平行式の二つの約束の型があったから、各坪地名は、各「里」内におけるその土地の所在を明確に示すものであった。

 各里については、何条何里、たとえば、三条二里というように、座標を用いて、その位置が示されるのが通例であった。しかし、河内地方では、三条小野里というように、里については固有里名のみが用いられており、富田林市域に存した呼称もそのようであった。これらについては、具体的に後記する。