一町四方の方格地割は二万五千分一の地形図上で正確に発見することは困難であるが、近年、航空写真から図化された各市町村発行の一万分一地形図上では比較的容易に追跡することができる。別添地図はこの地形図に、各種の航空写真および明治年間の地籍図を援用して確認した方格地割の分布を示している。
図は古市以南の石川谷中流部であるが、古代の郡の制度でいえば、北から、古市郡、石川郡および錦部郡のそれぞれ一部に相当する。
段丘面を主とする平野部においても、全域に条里遺構が確認されるわけではなく、たとえば、富田林、大ケ塚の寺内町や新堂などの大集落の周辺では、追跡が困難であり、明治以降の耕地整理や近年の住宅地化などにより消滅したと考えられる地区も多い。しかし、北方に関しては、東西両岸とも古市郡から連続した条里分布地域と見なしうる。本流沿いには、西岸で甲田付近まで認められる方格地割がそれ以南では確認できず、特に廿山部落を頂点とし、東方の芝・新家・錦織方面に広がる地域では、全く見られないことが注目される。同じく東岸では、西板持西方の平野から伏見堂・嬉方面にかけて、地形的には可能と考えられる所に方格地割が欠けている点、西岸の甲田以南と同様である。
これに対し、東条川(千早川)、梅川の両水系で形成された富田林市別井以南の連続的な段丘面には典型的な条里地割が残存し、河南町域から、最奥部の千早赤阪村水分付近まで、その跡を追うことが出来る。
中間の支流、佐備川の谷では、図上に明示しえないが、下佐備、竜泉付近の狭い段丘上に、それらしい地割が認められるが、これを条里地割と確認することは困難である。