この地域の条里について記載することを目的とした文書も絵図も発見されていない。しかし、条里呼称による土地の表示例はいくつか散見される。その内、最も重要なものは、元慶七年(八八三)の『観心寺勘録縁起資財帳』(古代六九)である。ここでは、石川郡荘八処として、佐備荘・大友荘・新開荘・田舎荘・仲村荘・社屋荘・切山荘・東坂荘を挙げており、これらは錦部郡の高田荘・治田野荘および古市郡の古市庄などとともに、観心寺領の一部をなしていた。各荘庄に属する地籍として、たとえば、古市庄で壺井里一坪一町・二坪五段、高田荘で一条川原里三坪・十条社里廿一坪、佐備荘で二条市原里十坪などの表記を行なっている。石川郡の八荘についていえば、東坂荘を除く他の七荘について、以上の如き、「里」・「坪」による地籍の記載を行なっている。ここでは、新開荘、田舎荘の位置を正確に比定するのは不可能であり、不完全ながらこれをなしうるのは大友荘のみであるが、現在の大字、旧村名にその名を留めていることは興味深いし、佐備、切山両荘の如く、推定される位置を考えると、現在追跡し得る条里遺構がきわめて微弱であるか、不可能である地域にも、条里呼称が行なわれていたことは、現在ほとんど農地の見られない山地にあっても、したがって、地割としての条里制が全く行なわれた可能性のない地域にも、地籍のための条里制があったことを意味する。石川郡の八荘については、社屋荘が地壱町として、五条社屋里廿四坪百六十歩と記されている以外はいずれも明確に、水田または陸田として地目を記載しているから、耕地皆無であったわけではないが、方六町の里内の大部分は非耕地で条里地割がなかったと推定される里は多い。すなわち机上計画としての条里坪付がそのまま土地の登録に用いられたのであり、その意味での条里分布と地割としての条里分布はその範囲を異にしている。