坪および数詞地名

719 ~ 723

別添地図に示した方格地割は一町毎の間隔で地籍図などに見出されるものであるが、施行計画とその実施という観点からすれば、十分な復原がなされたといえない。まず数詞地名、坪地名を手がかりに復原を試みる。

 別井の東方に、一ノ坪、二ノ坪、三ノ坪、五ノ坪、八ノ坪、クノ坪、十ノ坪、十一、十六の小字名が図のごとく分布する(519)。いずれも河南町寺田の領域にあるが、西南端の一ノ坪から東の六ノ坪まで進み、折り返しその北側を七ノ坪から西へ配列する千鳥式の坪付が明らかである。各坪に対する数詞地名の全体としての正しさから、一ノ坪は一区画、西へ移り、今池・新池間を通って別池の東縁を走る南北の線と現在の府道上河内・富田林線の交点の東北角を一ノ坪、今池に南接する一町四方角を三十六ノ坪とする「里」が浮かびあがる(520)。

519 河南町寺田の数詞坪地名
520 同上の条里坪付

 山中田の黒主神社の西麓に一ノ坪、それに北接して「十二」、さらに北大伴の集落の南端に四ノ坪が別添地図の如く配列する。この三つの「坪」はやはり千鳥式の進行方式による、二つの隣接する「里」を設定するのに十分である。

 以上の二カ所における数詞地名からの復原作業により、少なくともこれらの部分における条の配列が、坪の配列関係からみて、西から東へ一条、二条と行なわれたこと、里は南から北へ一里、二里と数えられたことが明らかとなる。

 毛人谷の南部の四ノ坪、五ノ坪、これに南接する北甲田の八ノ坪の場合、それぞれの呼称に一部欠落がないとすれば、富田林小学校の主部を一ノ坪として西に進み、河南高校の主部を六ノ坪として、南に移ると考えるのが自然である(521)。八ノ坪の小字範囲が広大に過ぎて、坪付が千鳥式であったか平行式であったか確定できない。大越勝秋が甲田付近の錦織郡条里の推定として、西北隅に始まり千鳥式で東北に終わるとしたのは(『河内国条里遺制補遺』(五))、三カ所の坪地名の分布から疑問がのこる。いずれにしろ、別井付近や大伴付近とは異なった坪付があったことは確実で、この近辺に、石川郡と錦部郡の郡の郡界を求めることができよう。

521 毛人谷・甲田境界付近の小字地名

 富田林市域をはずれるが、羽曳野市西浦付近に一ノ坪、二ノ坪、十二ノ坪、十三の坪が一里中の合理的な配列を示し、十三の坪に西接して、十八の坪があるのは西隣の条、同じ里(東西に並ぶ)中の西隣の「里」のそれとして妥当する。同様に、水守西方の六ノ坪を東南隅に有する「里」、さらに西浦小学校東南北の「三十五」を含むさらに南の「里」それぞれ妥当性をもって確認される(別添地図)。「三十五」ノ坪を残す里の南限は、現在の羽曳野市尺度と富田林市平・喜志新家の間の両市界に一致しており、由井喜太郎のいう如く、古代の石川郡と古市郡の境界がここにあった(「河内国条里の研究」ヒストリア一三)という説を支持する。同時に古代の境界が現代まで継承されていることを示して興味深い。

 以上の他、本市域内では、若松町東三丁目に「九ノ坪」、中野町東一丁目に「中ノ坪」が見出されるが、条里坪付の復原は困難である。隣接市町村では、羽曳野市の東阪田東北方の「蜂ノ坪」(八ノ坪か)、古市町に「十ヶ坪」、「二ノ坪」があり、河南町寛弘寺出屋敷に「市矢坪」がある。いずれも坪付復原には無理をともなうものである。