石川郡における坪付形式は以上により、ほぼ明らかであるが、南北に細長い条が西から東にどのように呼ばれたか、また、東西に連なる里がどのように名づけられたかが明らかでない。
この点については、先に挙げた『観心寺勘録縁起資財帳』の記載が有用である(古代六九)。
石川郡八荘の内、佐備荘については、二条市原里・杭原里・佐備里・楊谷里および三条墓廻りの各里に分散した所領がある。先の大伴を中心とした「里」から西方に六町間隔に「条」を仮りに設定すると、佐備川の谷の大部分を含む条に現在の竜泉・上佐備・北畑・下佐備などの集落が含まれ、これを二条としえよう。上佐備の東条小学校北側に小字市平山がある。市平を市原と考えれば、南から北へ佐備川の谷口まで、市原、杭原、佐備、楊谷の各里があったと考えうる。杭原は不明であるが、佐備里は下佐備、楊谷里はその北に接する柳谷の谷口部を含む里となり、妥当する。この条をもって二条となしうる(522)。
つぎに、大友荘として、三条小野里・度巳呂里が挙げられている。佐備川西岸、国道三〇九号線が大きく屈曲する地点の南側に「ヲノウエ」または「尾上」の小字があり、佐備川・石川合流点東方に「トコロ」または「所」がある。それぞれを中心として、先に仮定した条の呼称を適応すれば、ともに三条に入り、資財帳の記載と一致する。新開荘、田舎荘についてはその所在は不明であるが、他は、仲村荘の六条・七条、社屋荘の五条という記載はいずれも仮定と矛盾しない。
以上により、富田林小学校東側の南北線を一条と二条の境界として、西から東へ、一条から七条を数えたことは確実である。ただし、五条に相当するのは南北一貫して、東条川の谷にあたるが、別井付近および大伴付近の確度の高い坪付復原に東西をはさまれて、東西幅は約五町で設定されることになる。寛弘寺出屋敷の市矢坪はこの条に入るが、そこでの坪付はなお考察を必要とする。
河内地方では、条のみを座標値で、里は固有地名で表すのが一般であり、ここに用いた資財帳の記載もそれにしたがっているが、新開荘についてのみ、三条二里栗里とある。その所在が明らかでないために、一里の線を確定できないが、大友荘・佐備荘の場合、点在する所領を南から北へ順に挙げている点は、石川郡における坪付方式から導かれる里の呼称原則に合致している。
『観心寺資財帳』以外に、康治二年(一一四三)の石川荘の坪付注文(西岡虎之助『荘園史の研究』下)や甲斐布志見庄についての記録(『大日本古文書』家わけ第四『石清水文書』一―二七〇)に、当市域にかかわる里名が散見するが、ここでは、特にとりあげない。