郡界

725 ~ 726

一般に条里制は古代の郡単位で行なわれたといわれてきた。富田林市域を中心とする石川谷には、石川郡を中心として、北に古市郡、南に錦部郡が置かれていたが『和名類聚抄』でそれぞれに属した郷は、古市郡=新居・尺度・坂本・古市、石川郡=佐備・紺口・雑居・大国、錦部郡=余戸・百済であった。これら諸郷の領域が明らかではないために、郡界の復原も困難である。

 石川西岸における南北の郡界についてはすでに多少触れているが、三郡域を通じて、一町間隔の地割は連続して置かれており、すでに述べた古市郡の条里復原は段丘西端の条においては動かないから、平・尺度間の線から六町ごとに、すなわち一里ずつを区分してみると、五つめの里の南端は、甲田付近の異なる坪付体系の北界と連接する。それぞれを石川郡の南北界と考えてよいであろう。

 石川東岸については、『観心寺資財帳』に、古市庄として、五条苽生田里・川原里・壺井里とあり、壺井が古くから古市郡に属したことは明らかであるが、郡界が現在の市境と一致するか否かは明らかでない。

 西岸における石川郡と錦部郡の推定郡界は、近世における記録で(『日本輿地通志畿内部巻第二八および二九・河内国之二および三』・『大日本地誌大系』三四―二〇二~二〇八)毛人谷を石川郡、甲田を錦部郡とするにかかわらず、北へ一町ずれているが、後世の郡界の移動があった可能性を示唆する。

 また同じ資料では、西板持を錦部郡としているが、条里復原の項で述べた佐備荘のうちの楊谷里が、西板持の南端部を含み、三条小野里などの所在から考えて、西板持は石川郡に含まれていたと考えるのが妥当である。

 以上によると、地形的条件が許す場合、石川谷の三郡は、たがいに整合する条里地割を行なったことが注目される。