条里研究の意味はそのもとのあり方を明らかにすることとともに、現代に残るその影響を多方面にわたって明らかにすることにある。
前項までに、条里地割のあり方を復原してきたのであるが、これは、農道・畦畔・水路を明らかにすることが基礎になっている。すなわち、現代における土地の所有の形態や灌漑の方式の基盤を明らかにすることにつながっている。
条里制施行との先後関係を各集落の成立時期について明らかにすることは困難であるが、類型化すれば、(一)施行以前から成立していたために条里地割に影響されず、むしろ条里地割の例外となっている集落、(二)条里制の施行とともに計画成立した条里制の規制を受ける集落、(三)施行後に成立し、条里地割に規制される集落、(四)施行後に条里制を無視して設定された集落などが考えられる。
新堂や富田林寺内町などは(四)であることは明らかであり、寺内町の周辺にはりついた部分は、寺内町内の街割よりも周囲の条里地割の影響を受けて、(三)に該当する部分である(523)。
大伴・板持・別井などの集落の内部構造は明らかに条里制に影響されているが、これらが古い文献に見出される地名であることから、(二)あるいは(三)のいずれかである。しかし、(五)既存の集落が条里制施行とともにその枠で再編成された集落、という範疇を設定した方が正確であるかも知れない。
錦織や宮の集落は、構造や位置から考えて、(一)である可能性がある。
いずれにしろ、これらは今後の研究にまたねばならない。
粟ヶ池や別井池などの段丘面上の比較的大きい灌漑用水池は、部分的に条里地割にしたがっている。多くの水路もまた同様である。
粟ヶ池の場合、その南岸は東西線よりもやや傾いているのは、灌漑技術上の問題であろうが、それ以南の条里の東西線が富田林市街地付近まで、ほぼ同じ傾きを示している。北岸の延長線上にある美具久留御魂神社との関係などもあわせ考えると、この池が条里制施行以前にすでに築造されており、条里地割は部分的にその南岸の線を基線とした可能性を示唆している。
他の式内社や古墳その他の考古学的遺跡と地割との関係は今後に残されるが、それらが明らかになる時、古代の石川谷の地域像がより鮮明なものとなるであろう。