天平五年正月、後宮にあって藤原氏を支持してきた県犬養橘宿祢三千代が死去した。県犬養の名は、県にあった倉庫の警備管理を任としたことによるものである(黛弘道「犬養氏および犬養部の研究」『学習院史学』二)。橘の名は和銅元年(七〇八)一一月二一日の大嘗会に際し、浄御原朝廷より現在にいたる功績に対し与えられた。養老五年五月元明太上天皇の危篤のとき、三千代は入道して尼となったが、女官の地位に留まったらしい。
三千代の最初の夫は美努王(敏達天皇の四世の孫)で、彼との間に葛城王(橘諸兄)と佐為王を生み、のち藤原不比等と再婚して安宿媛(光明子)を生んだ。
光明皇后は写経所を経営し、奈良朝仏教の発展に寄与した。国分寺や東大寺の建立は皇后が聖武天皇にすすめた事業であると『続紀』天平宝字四年六月七日条に記されるが、このような篤信は母三千代から影響を受けたもので、それは三千代が古市郡(富田林市域〔石川郡・錦部郡〕に隣接した)を本貫とし、同郡と近隣諸郡における渡来氏族から仏教信仰を摂取したためといわれる(岸俊男「県犬養宿祢橘三千代をめぐる臆説」末永先生古稀記念『古代学論叢』)。
光明皇后は安宿媛とよばれたが、古市郡の隣郡に安宿郡があり、そこには藤原氏と深い関係を持つ漢系渡来人田辺史(たなべのふひと)がいた。『尊卑分脈』所収の藤原鎌足伝によれば、不比等は山科(やましな)の田辺史大隅の家で養育されたと記され、不比等の名は田辺史の史からきているともいわれる。山科の田辺史と安宿の田辺史を同族とすれば、不比等と三千代を結びつける役割を果したのは田辺史であったかもしれない。
田辺氏の本貫にのこる田辺廃寺(525・柏原市)では、昭和四六年に発掘調査が行なわれた。東西両塔が磚積みと瓦積みの基壇をもち、東塔の磚積み基壇は露呈部が非常によく残っており、西塔瓦積み基壇も朝鮮の軍守里廃寺(忠清南道扶余郡扶余西)の金堂基壇と同形式の築成として注目されていた。発掘調査の結果判明したのは、(1)薬師寺式伽藍配置である、(2)伽藍中軸線上の金堂跡に大日如来石像が安置され、その台石(東西一・一〇メートル、南北一メートル)は火災を受けたが、原位置を保ち、東西両塔と中軸線の交点から台石南縁まで一五・二〇メートルをはかる、(3)東西両塔の礎石は同規模で、両塔心礎間は二八・四五五メートル、基壇縁間は一八・六メートルである。西塔心礎は出枘式で現存するが、東塔心礎は未確認である、(4)中門跡は両塔心礎と中軸線の交点から南へ二〇数メートルのところにある、(5)南大門は中門の南六四メートルにある。
この廃寺からみても田辺史は仏教を厚く信仰し、田辺氏をはじめとする外来系氏族の仏教崇拝が三千代、ひいては光明皇后の仏教信仰に大きな影響を与えたと考えられる。
三千代は、薨じたとき内命婦正三位で、内命婦とは五位以上の女官をさし(五位以上の男の妻を外命婦とよぶ)、女官中でもきわだった高位者であった。藤原氏の氏寺の興福寺に三千代の冥福を祈って、西金堂が造営され、「造仏所作物帳」(古代二三)はそのときの資財と製作品を記している。それによれば石川郡と交野郡(交野市と枚方市)の土を使用しており、交野郡の土は土器(瓷坏)製作用に、石川郡の土は玉製作用に使用されている。
『続紀』天平一五年(七四三)九月一三日条に「官奴斐太を免じて良に従わしめ、大友の史の姓を賜う。斐太は始めて大坂の沙を以て玉石を治めし人なり」とある。大坂は関屋(北葛城郡香芝町)から河内へ越える穴虫峠(北葛城郡香芝町)のことで、二上山の北にあたり、今も穴虫峠とそれに接する太子町(河内国石川郡)で金剛砂が採取されているが、同じく玉の製作に使われた石川郡の土と金剛砂とはどのように関係するかについては今後の考察が必要である。石川郡の地名の大伴は大伴氏と関係があるが、大友の氏の名は渡来人系の氏の名で、大伴と大友とは混同してはならない。
『続紀』は天平七年(七三五)九月二八日の条に板持氏に関する事件を記している(古代二四)。すなわちそれは「是より先、美作守従五位下阿倍朝臣帯麻呂ら、四人を故殺す。其の族人、官に詣でて申訴す」というものである。これを右弁官が審理しなかったため処罰したが、詔によって罪を許すとある。右弁官の構成員は大弁が大伴道足で、中弁が高橋安麻呂、少弁が県犬養石次、大史が葛井諸兄と板茂安麻呂、少史が志貴広田であった。板茂は板持と同じ訓で、富田林市板持に本貫地をもつ氏族であろう。安麻呂は神亀四年(七二七)書博士であり(古代二一)、天平二年(七三〇)には壱岐守として太宰府にいる(古代二二)。安麻呂の姓は連で、板持史内麻呂は養老三年(七一九)正月、従六位上より従五位下に叙せられ、同五月連の姓を授けられており(古代一九)、安麻呂と内麻呂との関係は明らかでないが、板持氏は中流貴族と考えられ、この安麻呂の事件以降中央政界から姿を消す。板持氏で再び官人として史料にみえるのは、神護景雲二年(七六八)の真釣(まつり)であるが(古代六一)、彼の位は外位であった。許されたとはいえ、天平七年の事件が板持氏に与えた影響は大きかったといえよう。
板持氏でさえこうであるから、大伴道足には大きな影響を与えたにちがいない。天平三年八月一一日参議に任ぜられ、中央の政界の一角に地位を占めたが、この事件で完全に影響力を失ったであろう。天平元年二月以来、死去するまで正四位下であるし、この記事以降彼の活動はみえなくなる。天平五年の三千代の死とこの事件が、直接に関係するとはいえないだろうが、藤原氏は機会あるごとにその勢力を伸ばしたのである。