天平七年(七三五)夏に九州から流行し始めた天然痘(豌豆瘡(えんずそう)・裳瘡(もがさ)と記される)は飢饉をひきおこして猛威をふるい、平城京にまでひろがり、九年に藤原不比等の四子もこれにたおれ、房前(四月一七日)麻呂(七月一三日)武智麻呂(七月二五日)宇合(八月五日)が没した。
藤原四子に代わって政府の実権を握ったのは、橘宿祢諸兄で、唐から帰国していた吉備真備と僧玄昉が政治顧問の役割をつとめた。聖武朝の仏教政治の第一の開花は、国分寺の建立である。国分(僧)寺の創建詔は天平九年(七三七)三月三日平城京で発せられたが、天平一二年藤原広嗣の乱がおきて鎮護国家の願望はさらに高まり、天平一三年二月一四日恭仁京(京都府相楽郡加茂町)で国分僧尼寺の建立詔がだされた(井上薫「国分寺の創建」『奈良朝仏教史の研究』)。
藤原広嗣は藤原式家宇合の子で、天平一〇年一二月大宰少弍に任ぜられ、大宰府へ赴任したが、天平一二年八月二九日、時政の得失と天地の災異を述べ、玄昉と真備の二人を除くためと称して、九月三日大宰府の兵を用い反乱を起した。このような乱は壬申の乱以降久しくなかったもので、貴族層に深い動揺を与えたが、一一月鎮圧された。実際の戦乱は北九州の一部地域で行なわれたにすぎなかったけれど、聖武は乱中に伊勢に行幸し、平定後は美濃・尾張・近江を経て一二月恭仁宮へ入り、そこを都と定めた。さらに天平一四年八月二七日、近江甲賀(こうか)郡紫香楽(しがらき)宮へ行幸し、天平一五年末までに四度の行幸があった。この間天平一五年五月三日恭仁京で、墾田永世私財法が出され、公地公民制崩壊は決定的となった。さらに一〇月一五日には紫香楽で廬舎那(るしゃな)大仏造立詔が出された。聖武朝の仏教政治は、ここに第二の開花期をむかえる。ここで国分寺について河内の場合についてふれておこう。
国分寺は官寺の代表的存在であり、政庁の国衙と深い関係をもち、国分僧寺(金光明四天王護国之寺)と国分尼寺(法華滅罪之寺)から成る。河内の国分僧寺跡に比定されるものに衣縫廃寺(藤井寺市国府)、旧玉手村片山廃寺(柏原市片山町)、東条廃寺(柏原市国分字塔本)の三つがあったが(526)、石井信一氏は踏査実測によって東条廃寺が最も可能性に富むとした(「河内国分寺」角田文衛編『国分寺の研究』)。衣縫廃寺は瓦と心礎をみれば飛鳥時代建立の寺であるが、奈良朝末に廃絶しており、よしんば金光明寺設立以前に国分寺的な役目を負うていた可能性は没却されないとしても、これは国分寺でありえない。玉手村片山の薬師堂に横たわる礎石がみられる地は狭隘で、七堂伽藍をいれるに足りない。
いっぽう東条廃寺の位置は、大和川の溪谷と大和方面への陸路を扼(やく)し、要衝の地にあたる。『河内志』に「国分廃寺、(中略)式に曰う国分寺料一千束は即ち此れなり」といい、『国郡志』に「安宿郡に国分寺あり、址は国分村なり」と記される。昭和九年一月、国分村大字東条の通称ひのたに山麓の高台・田圃の地下二尺から大伽藍に使われた三基の礎石が発見された。礎石は一五尺五寸の間隔をとって「く」の字形に配置され、大きいのは直径六尺、高さ三尺、重さ八〇〇貫ほどあり、いずれも柱座直径二尺五寸、中心の臍(ほぞ)(枘)の径八寸五分、同高さ二尺八分(二寸八分の誤り)で、天平時代の優秀な造出礎石である。これらが石井氏の根拠である。
戦後に藤沢一夫氏が発掘調査し、塔の心礎のほか三個の礎石、および凝灰岩の基壇などを明らかにするとともに、応永元年(一三九四)「河内国古市郡西琳寺領田畠目録」(西琳寺旧蔵・黒板昌夫氏所蔵)に国分寺分として「安宿郡塔本秋公田壱町四段三百歩、正税分、同夏麦公畠弐町八段百五十歩、正税分」とみえる記載について、国分寺分としてあげられた西琳寺の領地は元来河内国分寺のものであったが、同寺廃滅後、西琳寺の領地に移ったこと、その領地の中に安宿郡塔本という土地における水田一町四段三百歩と畠二町八段百五十歩とがあげられ、この目録に東条廃寺の所在地付近が塔本とよばれていること、東条廃寺が塔本千軒と称され、安宿郡における塔本という地は東条廃寺の位置であること、などに注意し、国分寺が存した時代にその寺領中に他の寺院の存在するわけもないから、塔の本という地こそ国分寺の寺地であり、東条廃寺は国分寺そのものであらねばならぬ、と論じた(大阪府教育委員会社会教育課『河内東条廃寺即国分寺に就いて』)。これによって国分寺の遺跡の位置が明らかになった。
塔跡の基壇は一九メートル四方で、高さは一・六メートルをはかり、北側が破壊されていたが、他の三面にほぼ四五度傾斜の階段(五段)が設けられていた。心礎(直径八〇センチ)は出枘式で、かつ柱座の造出をもち、この種の国分寺心礎は山城・遠江・但馬の国分寺にみられ、畿内とその周辺の文化程度の高さを示すメルクマールとされる。礎石を引き抜いた跡は一一カ所が発見され、礎石の間隔は三・三メートルをたもち、礎石の外側に二上山から産した凝灰岩の切石(六〇センチ角)を敷きつめていた。
つぎに大仏造立であるが、これは聖武自身が、「河内国大県郡の智識寺の廬舎那仏をみて、自分も仏を造ろうと思った」と述べているように(『続紀』天平勝宝元年一二月二七日条)、智識寺の廬舎那仏がモデルとなった。これについては今井啓一氏の考察をみておこう。昭和三七年に発掘調査が行なわれた柏原市高井田町の小字戸坂・宮地の両地域にまたがる廃寺跡は、一般に鳥坂寺とされているが、これは誤りで、この廃寺跡こそ、奈良時代、聖武・孝謙両天皇がしばしば行幸礼仏した智識寺にあてるのが妥当である。高井田地区に設けられたであろう竹原井頓宮(行宮・離宮)は智識寺(南)行宮(『続紀』天平勝宝八歳二月二四日条・四月一五日条)とも称したから、智識寺は高井田地区の至近に位置したと思われ、これに比して、鳥坂寺は高井田からは遠く隔たっていたらしいとされている(今井啓一「所謂『鳥坂寺』について」『古代文化』一〇―四)。