大仏造立詔を発した聖武天皇は、数日のうちに紫香楽宮で大仏造立用の寺地を開いた。その造営費のための勧進(募財)に従事したのが僧行基である。しかし翌天平一六年正月に聖武は、難波宮行幸の準備を始める。閏正月には百官を朝堂に会して、恭仁と難波のいずれが京都にふさわしいかを論じさせ、市でも市人の意見を聞いているが、恭仁京賛成者が多かった。にもかかわらず聖武は難波に行幸し、二月難波を都と定めた。この難波への行幸にさいして起ったのが、安積(あさか)親王の事件である。
安積親王は神亀五年(七二八)、聖武と県犬養宿祢広刀自の間に生まれた。神亀五年といえば既述のように聖武と光明子の間の子(基王)が、わずか一歳で死去した年である。当時は県犬養橘宿祢三千代が後宮に勢力を張ったとはいえ、広刀自の父の唐(もろこし)は従五位下で、藤原氏とは対抗すべくもなかったであろう。三千代と同族であったため、生後すぐに政争の渦にまきこまれなかったのが、せめてもの救いであろう。聖武と光明子の間にはその後も皇子は生まれなかったので、天平一〇年には皇女の阿倍内親王を皇太子としている。内親王を皇太子とする異例の措置の背後には、藤原氏のあせりが読みとれる。こうした状況の中で育った安積親王は、天平一六年には一七歳であった。一七歳といえばもう一人前で(聖武の立太子は一四歳)、しかも相つぐ遷都で人心は動揺している。
聖武の難波への行幸の一行に安積も加わっていたが、途中の桜井頓宮から脚病という理由で、恭仁京へもどった。恭仁京の留守官は鈴鹿王と藤原仲麻呂(武智麻呂の子)であった。恭仁京へもどった直後に安積親王は死去しており、暗殺の首謀者は仲麻呂とみられる(横田健一「安積親王の死とその前後」『白鳳天平の世界』)。
桜井頓宮の位置について(1)東大阪市と(2)富田林市とがあげられる(528)。『和名抄』に河内国河内郡桜井郷がみえ、桜井郷の位置は『河内志』に六万寺(地名。東大阪市六万寺町)付近とされる。恭仁宮から桜井頓宮を経て難波宮へ赴くとき通るコースとして恭仁宮―平城宮―竜田道(あるいは暗峠越または十三峠越)―桜井頓宮―難波宮というコースが考えられよう。
かりに桜井頓宮を富田村市に求める場合は、恭仁宮から竜田道(または竹内街道)を通り、桜井頓宮を経て難波宮に赴いたとすると、竜田道の安堂(柏原市)や竹内街道の古市(羽曳野市)からいったん南下して桜井頓宮に立ち寄ったことになり、わざわざ遠回りをして難波に赴いたことになる。
(1)の桜井(東大阪市)も(2)の桜井(富田林市)の地名の由来も、両者とも清泉の湧出する井戸があることにもとづく。(1)の桜井(東大阪市)は『河内名所図会』に「桜井村にあり。清泉甘味なり」と記され、『大阪府全志』の南河内郡枚岡南村大字六万寺の項には「字桜井の田圃の間にあり、縦六尺五寸、横五尺、深さ壱丈にして、水質清冷、旱天にも涸るゝことなく、関白藤原房嗣も来りて国風一首を詠じ、其の歌箋は蔵して今尚村民某の家にありといふ」と述べ、「汲めは散る汲まねは底に影やとす花の香を汲む桜井の水」という作品をあげている。
(2)の桜井(富田林市)の場合も『河内名所図会』に「桜井 同村(喜志村)にあり。清烈にして甘味也。茶は可にして、こゝに汲む」と記され、『大阪府全志』には南河内郡喜志村の項で「桜井は佐保野の東端なる東高野街道の傍にあり、俗に弘法大師祈願の遺跡と伝へ、水は極めて清冽且つ甘味にして最も茶に適し、好事家遠来して之を汲めり」と述べている。しかし現在、この井戸は全く忘れ去られ、水田脇にあたかも野井戸のように存し、水も汚れている。わずかにその石組みにのみ往時の面影をとどめるにすぎない(529)。
清冽な寒泉を湧出することは頓宮にとって大切な条件である。(1)の桜井と(2)の桜井は、その点で共通点があるけれども、(1)の桜井は郷名であるのにくらべて(2)の桜井は郷名になっていない。また恭仁宮から(1)の桜井頓宮を経て難波宮にゆく方が近廻りである。このように考えてくると、安積皇子が赴いた桜井頓宮は(1)東大阪市の六万寺付近に存したとみてよかろう。