天平一六年(七四四)二月二四日、聖武天皇は難波を出発し、紫香楽へ向かった。二六日、左大臣橘諸兄が勅を宣べ、難波を皇都と定めた。この年一一月一三日、紫香楽甲賀寺に大仏の骨柱をたて、聖武自らその縄をひいた。翌一七年五月、官人や衆僧の意見により、平城に還都し、さしもの遷都さわぎも一段落する。これにともない大仏造営事業も平城に移され、金鐘(こんしゅ)寺の場所に東大寺を開いた。
大仏の造立は当時の人びとにさえ「東大寺を造り、人民苦辛す」(『続紀』天平宝字元年七月四日条)といわれた大事業で、国家の支出はもちろん民間からも寄附を集めた。(530)は奈良朝の造寺事業への寄進者の一覧表である。
年月日 | 国 | 人 | 知識物 | 寺 | 寄進前の地位 | 叙位 | ||
1 | 天平 | 19.9.2 | 河内 | 河俣連人麻呂 | *銭1000貫 | 東大寺 | 大初下 | 外従5下 |
2 | 〃 | 越中 | 礪波臣志留志 | *米5000石 | 〃 | 無位 | 〃 | |
3 | 20.2.22 | ―― | 物部連族子嶋 | *銭1000貫,車12両,牛6頭 | 〃 | 外大初下 | 〃 | |
4 | 〃 | ―― | 甲可臣真東 | *銭1000貫 | 〃 | 外従6下 | 〃 | |
5 | 〃 | ―― | 大友国麻呂 | 知識物 | 〃 | 外少初上 | 〃 | |
6 | 〃 | ―― | 漆部直伊波 | *布20000端 | 〃 | 従7上 | 〃 | |
7 | 21.4.1 | ―― | 他田分人部常世 | 知識物 | 〃 | 外従8下 | 〃 | |
8 | 〃 | ―― | 小田臣根城 | *銭1000貫,車1両,鍬200柄 | 〃 | 外従8上 | 〃 | |
9 | 感宝 | 1.5.15 | 上野 | 石上郡君諸弟 | 知識物 | 上野国分寺 | 碓氷郡人外従7上 | 〃 |
10 | 〃 | 尾張 | 生江臣安久多 | 〃 | 尾張〃 | 山田郡人外従7下 | 〃 | |
11 | 〃 | 伊予 | 凡直鎌足 | 〃 | 伊予〃 | 宇和郡人外大初下 | 〃 | |
12 | 1.⑤.20 | 飛騨 | 国造高市麿 | 〃 | 飛騨〃 | 大野郡大領外正7下 | 〃 | |
13 | 〃 | 上野 | 上毛野朝足臣人 | 〃 | 上野〃 | 勢多郡少領外従7下 | 〃 | |
14 | 勝宝 | 5.9.1 | ―― | 板持連真釣 | *銭1000貫 | 東大寺 | 無位 | 〃 |
15 | 8.10.23 | 京 | 藤原仲麻呂 | 米1000石 雑菜1000罐 | 〃 | 大納言紫微令従2 | ―― | |
16 | 神護 | 2.9.13 | 伊予 | 大直足山 | 稲77800束,墾田10町,鍬2440 | 伊予国分寺 | ―― | 外従5下 |
17 | 景雲 | 1.3.20 | 越中 | 利波臣志留志 | 墾田100町 | 東大寺 | 外従5下 | 従5下 |
18 | 1.5.20 | 左京 | 荒木臣道麻呂 | 墾田100町,庄3区,稲12500束 | 西大寺 | 従8上 | 外従5下 | |
19 | 〃 | 〃 | 荒木臣忍国 | 無位 | 〃 | |||
20 | 〃 | 近江 | 大友村主人主 | 稲10000束,墾田10町 | 〃 | 外正7上 | 〃 | |
21 | 〃 | 尾張 | 刑部岡足 | 米1000石 | 尾張国分寺 | 海部郡主政外正8下 | 〃 | |
22 | 1.6.22 | 紀伊 | 日置毘登弟弓 | 稲10000束 | 紀伊〃 | 那賀郡大領外正6上 | 〃 | |
23 | 〃 | 土佐 | 凡直伊賀麻呂 | 稲20000束,牛60頭 | 西大寺 | 安芸郡少領外従6下 | 外従5上 | |
24 | 3.―― | 武蔵 | 大伴部直赤男 | 商布1500段,墾田40町,林60町,稲74000束 | 〃 | 入間郡人 | 外従5下 | |
25 | 宝亀 | 1.4.1 | 美濃 | 国造雄万 | 稲20000束 | 美濃国分寺 | 方県郡少領外従6下 | 〃 |
26 | ―― | ―― | 陽侯真身 | *銭100貫,牛1頭 | 東大寺 | ―― | ―― | |
27 | ―― | ―― | 田辺広浜 | *銭1000貫 | 〃 | ―― | ―― | |
28 | ―― | ―― | 夜国麿 | *稲10万束,屋10間,栗林2町,家地3町,倉53間 | 〃 | ―― | ―― |
〔*は「造寺材木知識記」(531)にみえるもの〕
(530)表の14の板持連真釣は、板持の地名との共通性からみて、本地域出身者と考えられる。
『続紀』の天平勝宝五年(七五三)九月朔の条に、無位の板持連真釣が銭百万を献じ、外従五位下を授けられたことが記される(古代四三)。『続紀』の宝亀元年(七七〇)一〇月二六日条には、外従五位下の板茂連真釣に外従五位上を授けたと記され(古代六二)、これら両記載では真釣の名と連のカバネが共通し、その位階は外従五位下から外従五位上に進んだと解すれば前後照応し、板持連真釣と板茂連真釣は同人物と知られる。
真釣の名前の書きかたが『続紀』の写本によって異同があることについて記しておこう。
黒板勝美編の『国史大系』本(甲)の天平勝宝五年九月朔(A)・宝亀元年一〇月二六日(B)条には前述のように「真釣」と記され、(甲)の校訂のさいの底本に用いられた写本は宮内庁書陵部所蔵の谷森健男氏旧蔵本であり、Aの頭注によると、「釣」の字は明暦三年印本や『日本紀略』に「鈎」に作るとある。いっぽう佐伯有義校訂『続紀』(乙)(朝日新聞社刊)が底本に用いたという明暦三年立野春節校訂の版本は、『国史大系』の凡例に掲げられた写本のなかの明暦三年印本というものに相当する。この(乙)の天平勝宝五年九月朔条(a)には「真鈎」と記され、宝亀元年一〇月二六日条(b)には「真釣」と記され、(a)の頭注には、内閣本(慶長の写本)曽我本(水戸徳川侯爵家所蔵本)淀本(旧淀藩稲葉子爵家所蔵本)に「真鈎」に作ると記す。
「釣」の字は、音が「テウ」で、意味は(一)つる(魚などを引きかけ捕える)、(二)つりばり、(三)つり(餌をつけて魚をとる)、(四)つり(つり銭)などである。「鈎」の字は「鉤」の俗字で、鉤の音は「コウ」で、意味は(一)剣に似てまがった武器(敵を引きかけ殺す道具)、(二)かぎ(物を引きかけるに用いるまがった金物)、(三)おびどめ、(四)つりばり、(五)引きかけること、などである。釣と鉤の音は異なるけれども、意味では共通点がみられる。このために混同が起ったものであろう。
板持真釣は銭百万(一千貫)を東大寺に寄進した功によって無位から外従五位下に叙せられ(既述)、このように知識物の寄進は位階を獲得する手段とされたが、その後、真釣は神護景雲二年(七六八)二月一八日伊予介に任ぜられ、宝亀元年(七七〇)一〇月二六日外従五位上に昇った(既述)。『続紀』によって真釣のことが知られるのはここまでである。
なお真釣についての史料(古代四三)、史料(古代四四)に対応するものである。史料(古代四四)を再録したものが(531)で、これについて若干の考察を加えておこう。
「造寺材木知識記」の「知識」という語は、(一)知ること、(二)知っていることがら、(三)知力、のほかに、仏教用語として(四)名僧・高僧(善知識)、(五)信者またはその団体、(六)信者が仏と結縁するために、造寺・造仏・写経などに必要なものとして寄進する資金・資財や、提供する労力をさす。
531 東大寺造営の史料・造寺材木知識記の記事
造寺材木知識記
材木知識五万一千五百九十人
役夫一百六十六万五千七十一人
金知識人卅七万二千七十五人
役夫五十一万四千九百二人
奉二加財物一人
利波志留志米五千斛 河俣人麿銭一千貫
物部子嶋銭一千貫車十二両牛六頭 甲賀真束銭一千貫
少田根成銭一千貫車一両鍬二百柄 陽侯真身銭一千貫牛一頭
田辺広浜銭一千貫 板持真釣銭一千貫
漆部伊波商布二万端 夜国麿稲十万束、屋十間、倉五十三間、栗林二丁、家地三町
自余少財不レ録レ之
「造寺材木知識記」(531)の二行目「材木知識」は東大寺造営用の材木を寄進した信者、三行目の「役夫」は材木を運搬・加工・組立てることなどの労役に従事した信者をさすと考えられる。四行目の「金知識」は、金属(大仏などの諸仏像を造る金・銀・銅などの類)を寄進した信者と解しておく。金の意味を金属のなかの金(大仏の仏体に塗金するためなどに使う)または金貨と考えると、その寄進者が「三十七万二千七十五人」と記されるのは多過ぎると思われるので、金は金属類としておこう。なお金を塗金用の金とか、金貨とする場合は、大仏などの仏体を造る金属類が「造寺材木知識記」のなかに含まれないことになり、大仏造営に必要な資材とその寄進者を記す記載として片よったものとなることからみても金を金属と解するのがよいと思う。五行目の「役夫」は金属類を運搬・加工などの作業に労力を提供した信者のことになる。七~一一行目の人びとは、米・銭・車・牛・鍬・商布・稲・屋・倉・栗林・家地などの財物を寄進した信者である。
大仏造営費として国費も用いられたが、そのほかに、多くの信者・知識の寄進にもよった(530)。これは発願者聖武自身の願望でもあり、このような造営方針を知識的性格という。東大寺も大仏も知識的性格を色濃く持っていたのである。
大仏の鋳造は天平一九年(七四七)九月二九日から開始され、天平勝宝元年(七四九)一〇月二四日まで、三年にわたり八度鋳継いで完成したという(『延暦僧録逸文』)。大仏に塗金するための黄金の不足が心配されたが、陸奥の産金によって、ある程度は解消された(陸奥の産金量は必要量の四分一程度といわれる)。この産金を祝って年号は天平感宝と改められたが、聖武の健康は悪化し、同年七月阿倍内親王に位を譲った。これが孝謙女帝であるが、即位と同時に天平勝宝と改元した。この孝謙朝に、光明皇后の信任をえて権勢をふるうのが、藤原仲麻呂である。