藤原仲麻呂の活躍は天平一二(七四〇)年の藤原広嗣の乱のころにはじまる。伊勢への行幸に際して彼は前騎兵大将軍つまり親衛隊長として活動し、天平一三年民部卿、一五年参議兼任、一六年安積親王事件の首謀者で、このように彼の活躍は目ざましい。その彼を支えたのが光明皇后と妻の藤原袁比良(おひら)である。袁比良は房前の娘で、安積親王事件にも関係したといわれ(薗田香融「藤原仲麻呂」井上光貞編『大和奈良朝』)、有力な女官であった。
孝謙天皇の即位は光明皇太后の摂政権の確立を意味し、仲麻呂は皇太后の甥として権勢を握る機会をつかんだのである。しかも、前年には元正太上天皇が死去し、橘諸兄は有力な支持者を失っていた(坂本太郎『日本全史』古代Ⅰ))。即位の日、仲麻呂は大納言にのぼり、八月一〇日紫微令を兼任、九月七日紫微中台の官位が定められた。紫微中台はもとの皇后官職すなわち光明皇后付属の官司が母体で、いわば令外の太政官ともいえるものであった。孝謙の即位から聖武の死去する天平勝宝八歳(七五六)五月までの時期は、仲麻呂政権確立の時期である。それと同時に勝宝四年の大仏開眼供養、六年の鑑真の渡来と聖武・光明・孝謙への授戒は、聖武の描いた仏教国家完成の姿でもあった。
金光明寺造物所を母胎として造東大寺司の機構が成立するのは、天平二〇年頃で、皇后官職(光明皇后付属の役所)も、その成立には深く関係していた(岸俊男「東大寺をめぐる政治情勢」『日本古代政治史研究』)。造東大寺司やそれに付属した写経所の歴史は、それ自体が政治の動向と深く関わっていた。造東大寺司の写経所には、石川郡出身者の活動もみられるので、以下本項では写経事業に焦点をあてて述べてみたい。
造東大寺司写経所の歴史は大きくみれば、三期に分けることができる。
第一期 光明皇后による写経事業の開始(神亀四年頃)から天平二〇年造東大寺司の活動開始までの、いわば前史の時期。
第二期 造東大寺司の活動開始から宝字八年の仲麻呂没落までの、仲麻呂による推進期。
第三期 道鏡が実権を握ってから、奈良時代末までの、道鏡指揮の時期。この期の天平神護元年から神護景雲三年までは、東大寺の写経が中止され、内裏へ移されている(井上薫『奈良朝仏教史の研究』)。
こうした写経所の歴史を念頭におきながら、石川郡出身の山代忌寸百引・佐伯宿祢諸上・板持連三依についてみておこう。