山代忌寸百引

748 ~ 750

写経所勤務者には、初めは政府の官人が動員されたが、天平宝字二年(七五八)ごろから民間人(里人という)も採用された。天平宝字五年のものかと推定される「奉写一切経所(?)上日帳」にみえる河内国石川郡の山代忌寸百曳・調日佐足麻呂ら計一八名はすべて本籍が記されており、里人と考えられる(532)。彼らが位階をもっているのは写経所に勤めるまえに政府に仕えたか、または本籍で郡司などの職にあったときもらったのかもしれない。上日というのは一年間のうち写経所に出仕した日数である。

532 石川郡の山代百曳・調足麻呂ら写経所勤務者の上日
写経所勤務者 位階 年齢 出身者 上日
村主道主 従七下 39 河内国大県郡 302
高橋益占 正八上 52 右京 301
鳥取連国麻呂 正八下 48 河内国高安郡 285
山代忌寸百曵 46 河内国石川郡 291
粟田臣小浪麻呂 38 左京 238
唐人石角麻呂 従八上 62 左京 266
佐自努公美豆太 58 右京 262
秦忌寸秋主 53 右京 344
勾部猪麻呂 53 飛騨国荒城郡 327
調日佐足麻呂 51 河内国石川郡 271
若桜部朝臣梶取 50 右京 268
針間直斐太麻呂 41 左京 327
大石能歌阿古麻呂 30 左京 289
内蔵忌寸豊前 従八下 67 大和国広瀬郡 306
草良部広麻呂 67 周防国玖珂郡 314
竹原連国吉 65 河内国安宿郡 354
伊香連田次麻呂 57 右京 307
山下部毘登国勝 57 大和国山辺郡 267

 石川郡出身の山代忌寸百引の名前は百曳とも記される。すなわち「奉写一切経所(?)上日帳」に「正八位下山代忌寸百曳年卌六河内国石川郡人上日弐伯玖拾壹」と記されるのによってわかる(『大日本古文書』一五―一三三)。この「上日帳」の年月日が欠けており、『大日本古文書』の編者は「コノ文書、年月日ヲ闕ケリト雖モ、既刊巻五、第二七二頁、宝字六年八月二十七日造石山院所労劇帳ニ拠リテ、今姑クコノ年ニ収ム」と記している。

 山代百引の名は天平宝字五年四月ころのものと推定される「奉写一切経所解案(?)」にみえ、すなわち、経師の吉師広人が写経した六三一張について与えられる布施の布一五端三丈二尺五寸五分と、経師雄橋豊嶋が書写した八七二張について与えられる布二一端三丈三尺六寸、および、校生の葛木弟人が校正した九千張について与えられる布九端を、山代百引が代わりに写経所から受取って預かっていることが記されている(『大日本古文書』一五―一一一・一一八)。この「奉写一切経所解案(?)」について『大日本古文書』編者は「コノ文書ハ、本巻第一頁奉写一切経所解案等帳ノ中、第五二頁天平宝字五年四月廿四日奉写一切経所解案ニ関連セルモノナリ、年月日ヲ注セザルヲ以テ、今姑ク四月ニ収ム」といっている。

 なお百引とは関係不明であるが、『大日本古文書』二五―一四五に、「養老五年籍所貫山代郷戸主山代忌寸国依弟[  ]麻呂男[  ]という断簡がある。国依の名はこれ以外の史料にみえず、断簡なのでその意味も不明であるが同時代の同族としてあげておきたい。