佐伯宿祢諸上

750 ~ 753

天平勝宝二年(七五〇)三月二三日の諸上の勘籍(古代三〇・『大日本古文書』二五―一一一)によると、彼は石川郡佐備郷(旧東条村大字佐備)の戸主佐伯宿祢形見の戸口で、年齢一九と記される。

 勘籍は、律令制のもとで戸籍の不備・不正などを正すため、民部省が戸籍を勘検することをいい、ひいては勘検の結果を記した書類をさす。戸籍は三通作られ、一通を国衙にそなえつけ、二通は都に送られ、うちの一通は中務省に届けられ、天皇がこれを見ることに定められており、他の一通は民部省に届けられ、班田制実施のための基礎台帳に使われる。

533 佐伯諸上らの本貫地・佐備付近

 諸国で六年ごとに新しく作られる戸籍は、調使・朝集使・計帳使らによって都に届けられ、中務省と民部省で五比(一比は六年)のあいだ保存される。民部省は前の戸籍とくらべて勘検し、戸口の増減などについて不審な点が見つかったときは事情を調べ、その理由を記し、諸国はそれをうけて計帳や戸籍に注記した。とくにきびしく勘検したのは位子(いし)・雑色・得度の者についてであり、三比にわたる戸籍を勘検し、さらに五衛府関係者については五比にわたった。

 佐伯諸上の場合は養老五年(七二一)・神亀四年(七二七)・天平五年(七三三)・天平一二年(七四〇)・天平一八年(七四六)の五比について勘検されている。

 諸上の名が史料に初めてあらわれるのは、(古代二六)の「経師上日帳」(『大日本古文書』三―二九九)である。それによれば諸上は、勝宝元年一一月に「日十八・夕十六」勤務した。日は日勤、夕は夜勤である。同年一二月は「日十六・夕十五」、勝宝二年正月は「日廿・夕十八」、二月は「日廿七・夕廿六」、三月は「日廿二・夕廿」、四月は「日廿三・夕廿一」、五月は「日廿五・夕廿三」、六月は日勤一〇日・夜勤九日であった。東大寺写経所では、大仏開眼(勝宝四年・七五二)にそなえ、仕事は繁忙をきわめていた。石川郡佐備郷出身の諸上は、そのような時に写経所に勤務していたのである。

 諸上はこの頃は、写経の校正に従事していた。勝宝二年五月には『法華経』の校正を(古代二五・『大日本古文書』一〇―五一六・五一八・五二〇・五二三~五二五)、九月から一一月頃は『花厳経』の校正(『大日本古文書』一〇―五二八・五三一・一一―二二)にあたっている。この間の勤務日数を記した「経師上日帳」(古代三三)に「年少舎人」として、勝宝二年八月に「日廿六・夕廿二」、九月「日卅・夕廿九」、一〇月「日廿一・夕廿」、一一月「日廿九・夕廿八」、一二月「日廿一・夕廿」、勝宝三年正月「日十六」、二月「日十八・夕十六」、三月「日廿九・夕廿八」、四月「日廿六・夕廿五」、五月「日卅・夕廿九」、六月「日廿三・夕廿二」、七月「日十五・夕十四」と記録されている(『大日本古文書』三―四五一・四五二)。これらすべてが写経の校正に費されたわけではない。勝宝二年四月一二日、造東大寺司の政所から、写経所で使う墨を受ける使もつとめている(古代三四・『大日本古文書』一一―一八四・一八八)。

 なお年月日欠の「見仕并不仕経師以下歴名案」に諸上の名が抹消の印をつけて「佐伯諸上」と記され、その下に「假」「見」と記される(古代三七・『大日本古文書』一一―三八六)。「假」は経師らが休暇をとること、「見」は出勤していることを意味するが、諸上の名や「假」と「見」の注記に抹消の印がつけられている。なお『日本古代人名辞典』にはこの「歴名案」によって諸上について「同(勝宝)二・八も経師で、未選とあり(一一―三八六)」と記しており、これは諸上の名の二行まえに大原魚次が「未選」と記され、魚次のあとに記される人名も未選の部類に入るものと解しているのである。ところで『大日本古文書』の編者はこの「歴名案」について「コノ文書、年月日ヲ注セズトイヘドモ、既刊巻三第四二六頁天平勝宝二年八月経師上日帳ト同時ノモノナルニ似タリ、故ニ今姑クコヽニ収ム」と記しており(『大日本古文書』一一―三八四)、この勝宝二年ごろの諸上の経歴と地位については、なお考えなければならない。

 諸上は勝宝三年(七五一)、東大寺写書所のため弓などの物品を受領している。この年の「写書所納物帳」に、「五月三日請弓五枝 大刀五柄 胡禄五具 右為護振[神(挿入)][〻(挿入)]初所請者使佐伯諸上 知水主」と記される(古代三八・『大日本古文書』三―五三七)。弓・大刀・胡禄(やなぐい)などの武器と護神初所とどのような関係があるのかについては明らかでない。水主は他田水主で、経師・紫微中台舎人・造東大寺司主典などとして活動した人で、『正倉院文書』では天平一八年(七四六)から天平神護二年(七六六)にわたってしばしば名前があらわれる(『日本古代人名辞典』二―四三〇~四三三)。「知」は弓などの物品を諸上に渡したさいの責任者という意味であろう。

 諸上は勝宝三年五月に千部の『法華経』の校正にもたずさわっている(「千部法華経校帳」・『大日本古文書』一〇―五三九)。

 諸上は勝宝四年(七五二)正月二三日の「韓櫃進送注文」によると、造東大寺主典の阿刀酒主の宣によって韓櫃一合が写経所より元興寺に送られたさい舎人として韓櫃を送る使者を勤めている(古代三九・『大日本古文書』一二―二〇三)。諸上の官職である舎人はどこに所属するか不明だが、あるいは東大寺舎人かもしれない。

 諸上は勝宝四年八月から翌五年七月まで写経所に「未選」「年少」として上日したがその数は、八月「日五・夕四」、九月「日卅・夕廿七」、一〇月「日十六・夕十五」、一一月「日八・夕七」、一二月「日十三・夕十二」、翌五年二月「日十一・夕十」、三月「日卅・夕十九」、四月「日十六・夕十五」、五月「日廿二・夕廿一」、六月「日十・夕九」、七月「日十九・夕十八」である(古代四一・「経師校生装潢上日案帳」・『大日本古文書』一二―三七二)。この間の勝宝四年八月一日、写経所から松本宮へ『華厳経』を返す使者となり(古代四〇・「写経所請経文写」『大日本古文書』一二―二六五)、同年一一月二六日に舎人として写経所から内裏へ『法華経』を返送する使者となった(古代四二・「法華経返送注文」『大日本古文書』九―六一〇)。

 天平勝宝五年五月一一日には少僧都良弁の宣によって『仏本行集経』一部六〇巻を内裏に返すときの返経使を勤めた(古代二七・「御願一切経所散并未写注文」・『大日本古文書』一〇―二八三)。