板持連三依

754 ~ 760

(1)勝宝二年(七五〇)四月三日の「仁王疏紙筆墨充帳」(古代三一・『大日本古文書』一一―一九一)に「勝宝二年四月三日始」とあるが、『仁王経疏』を書写する用紙を写経師に分け与えることを始めたという意味であろう。この「充紙帳」には板持三依が『仁王経疏』を写す用紙などを受けた日と分量が記され、四月七日に三〇張、一二日・一六日・一八日にそれぞれ二〇張を受けており(そのつぎに朱書で「廿三日八」と記されるのは、単に八張を受けたという意味でなく、なんらか違った事情があったことを示すらしいが、詳細は明らかでない)、「反上二墨半筆」とあるのは墨二本半と筆を写経所に返却したという意味である。

 (2)同じ勝宝二年四月三日の『仁王経疏充紙帳』にも、三依が用紙を受けた分量が四月七日に三〇張、一二日・一六日・一八日にそれぞれ二〇張であったと記され、その分量は前引「仁王疏紙筆墨充帳」にみえる分量と一致し、ただ「仁王経疏充紙帳」には上巻と記され、三依らが『仁王経疏』の上巻を書写したことが知られる(古代三二・『大日本古文書』三―三八二)。

 (3)勝宝二年四月二九日の『経師受筆墨注文』にこの日に筆・墨を写経所で受けた経師の名として張兄万呂・三嶋石虫・三嶋岡万呂・大友真高が記され、張兄万呂の右側につけられた張紙に「板持連三依」と記される。三依の名が張紙に記されているのは、張兄万呂の代理として筆・墨を受取ったという意味であろう(古代三五・『大日本古文書』一〇―四五)。

 これ以外に勝宝二年四月三日に始まった『仁王教疏』の書写関係文書で、三依の名のみえるものには「写仁王経疏上帳」(『大日本古文書』一一―二〇五)がある。それには

板持三依 十二日上用卅一一挍高橋 十八日上用卅一 廿四日上用卅三

とある。ほぼ同じものが同巻の二一六頁にもあって、それには「一挍高橋」の記載がなく、「廿四日上用卅三」が朱筆になっている。どちらかが案文であろう。また(1)・(2)で受けた用紙に書写したものを、一二日・一八日・二四日に提出したものであろう(用紙の数量の不一致の理由は、(1)の朱筆に関係するのだろうが、詳細は不明である)。

 (4)天平宝字二年(七五八)六月一八日の『中島写経所写手進送文』に「写手合十四人」という書き出しのつぎに経師とその位階・官職が記され、左大舎人の大初位下田部宿祢虫万呂・大初位下丸部臣人主、右大舎人の正八位上志紀県主久比万呂、式部書生の大初位上若倭部国桙・无位高東人、式部位子の无位田部宿祢国守、散位の従七位上忍海連広次・従八位下将軍水通・少初位上岡屋君石足・少初位上楢曰佐河内・少初位下岡曰佐大津、白丁の板茂三依・栗前咋万呂・曰佐膳夫の名がみえ(古代四六・『大日本古文書』一三―二三六・二三七)、板持は板茂と記され、三依は無位・白丁として中島写経所に出仕していたことが知られる。

 (5)宝字二年六月一九日の『経師筆墨直充帳』に、「天平宝字二年六月十九日始筆墨直充帳」という書き出しで、経師の名とそれが受けた筆・墨の直を記すなかに板持御依について六月一九日に七〇文、七月一七日に四〇文を受けたと記される(古代四七・『大日本古文書』一三―二三九)。

 (6)宝字二年六月二二日の『金剛般若経紙充帳』に板持三依が東大寺写経所で『金剛般若経』を書写する用紙を受けたことが記され、用紙の分量は六月二五日に一三張、二八日に二六張、七月一日に一三張、二日と四日に四三張、一〇日に二六張、一五日に二六張、一九日に二八張、二五日に二六張、「又」(同日にの意味であろう)二六張、八月になって一五日に一三張と記され、小計すると六月中に四〇張、七月中に一八八張、八月に一三張となる(古代四八・『大日本古文書』一三―三二四)。『大日本古文書』によると、六月二五日分の記載のつぎに「又廿廿八日廿六」とあり、同書編者は一つめの「廿」に「マヽ」と傍注している。二つの「廿」は重複とみてよく、そうだとすれば、六月二五日に一三張を受け、同日追加として一張受け、それが「又」と記されたと解される。

 (7)宝字二年七月五日の『千手千眼経并新羂索薬師経々師等筆墨直充帳』によると、板持御依は東大寺写経所で『千手千眼経』や『新羂索薬師経』の書写に参加し(古代四九・『大日本古文書』一三―三六一)、御依は八月七日に三〇文、同一三日に四〇文を受取った。

 (8)宝字二年七月七日の『千手千眼并新羂索薬師経書上帳』に、多くの経師が『千手千眼経』などを書き上げた分量がみえ、板持三依は八月三日・五日・一三日・一九日・二一日・二三日・二六日・二八日にそれぞれ「千手一」または「千一」と記される(古代五〇・『大日本古文書』一三―四一〇)。これは『千手千眼経』一巻を書写したという意味であろう。八月八日と同一〇日のところはたんに「一」と記されるのは「千」が省略されているのであると考えられ、この「書上帳」に記される経師には、書写した経典の名が「千」「羂」「薬師」のうち一つだけ記されるもの、二つか二つ以上がまじって記されるものがある。二種類のものを写した場合は「千」と「薬」などというように記されている例を参照すると、三依の場合は、八月八日と一〇日はたんに「一」と記され、その前後には「千」と記されるから、おそらく八日と一〇日も「千一」であり、「千」が省略されたと考えられる。なお三依は写経所に筆一と墨(使い残したことを「端」と記している)を返却している(『富田林市史』第四巻史料編一・古代五一では、「(八月)廿六日千一」のつぎに「廿八日千一」が脱落した)。

 (9)宝字二年七月九日の「充千手千眼并新羂索薬師経紙帳」に板持御依が東大寺写経所で『千手千眼経』などの料紙を受けたことが記され、受けた料紙の分量は、七月二九日に二八張、八月五日に五張と追加一六張、七日・一〇日・一一日・一三日・一九日にそれぞれ一六張、二一日一張、同日一六張である(古代五一・『大日本古文書』一三―四五六)。「廿一日」のつぎに「廿一日十六廿三日十六」とあるのは、あとの「廿一日」は「廿二日」の誤りであろう。同じ二一日に一張と追加の一六張を受けた場合は、ほかの人の場合を参照すると「廿一日十六」と記されるはずと考えられる。右の(7)・(8)・(9)に記した三依の写経作業はべつべつのものでなく、三依が『千手千眼経』を書写したことに関して筆・墨の代価を与えられたことが(7)に、『千手千眼経』を書き上げた分量が(8)に、受けた写経料紙の量が(9)に記されているのである。

 (10)宝字二年七月一七日の「金剛般若経書生等文上帳」に経師らが『金剛般若経』を書写した個人ごとの巻数の小計と合計、および使った用紙の分量が記され、板持三依は「写十巻並白『合写拾玖巻[弐拾巻(挿入)][〻〻〻(挿入)]用二百四十七張』」と記される(古代五二・『大日本古文書』一三―四六八)。この『文上帳』の題籤に「金剛般若経書上帳」とみえるから、「文上帳」は「書上帳」と同じ意味であろうが、なぜ「文上帳」というのか、明らかでない。三依の写経量は、小計が一〇巻で、合計は二〇巻の意味であろう。

 (11)宝字二年九月五日の「東寺写経所解」に『金剛般若経』千巻・『千手千眼経』千巻・『新羂索経』二百八十巻・『薬師経』百二十巻の計二千四百の写経に要した紙と写経生への布施の総計と各人の布施量が書き上げられており、三依は写紙四百二〇張に対し布一〇端二丈一尺を支給されている(古代五三・『大日本古文書』四―三〇七)。これは、写紙四〇張ごとに一端となり、「経師料以一端充卌張」との規定に符合する。

 三依が『金剛般若経』の写経にたずさわったことは、すでに述べた(6)・(10)に、『千手千眼経』・『新羂索経』・『薬師経』に関係したことは、(7)・(8)・(9)に明らかである。

 (12)また『大日本古文書』一四―三七には、つぎのような記載がある。

板持御依 写紙四百廿張 布十端二丈一尺

 准銭二貫七百卅六文(白絁二匹別七百五十文調綿十二屯別七十文庸綿六屯別六十五文銭六文)

この文書は「造東大寺司解」と標題され、(11)の史料(古代五三)と同じ宝字二年九月五日付の文書である。史料(古代五三)と相違する点は、史料(古代五三)には「准銭」以下の記載がないことである。この史料は史料(古代五三)を補完するもので、写経の代償(布施)として与えられた「布十端二丈一尺」は、銭に換算すれば「二貫七百卅六文」となり、それは白絁二匹・調綿十二屯・庸綿六屯・銭六文と等価である。三依に布施料として東大寺写経所より手渡されたものは、白絁以下のものであろう。

 (13)三依はついでまた『金剛般若経』の書写にたずさわった。前回のものと区別するために、文書のうえでも『後金剛般若経』と記し、(6)・(10)などと区別している。宝字二年九月一五日に筆墨を経師に分け与え始め、三依は一七日にその価として七〇文を受取っている(「後金剛般若経経師等筆并墨直充帳」・『大日本古文書』一四―六六)。この案文と考えられるものも残っており、それにも三依は一七日に七〇文を受取ったことが記されており、しかもこの文書は端裏に「不用」と記されている(『大日本古文書』一四―六九)。

 (14)この『金剛般若経』の書写のために、経師たちが写経所に参仕をはじめたのは九月一九日であるが、三依ら二二人はその前日から写経所へ出仕した(古代五四・「後金剛般若経経師等参仕歴名」・『大日本古文書』一四―一一四)。この史料に三依が朱抹され、朱線が付されている理由は推測しがたい。史料に「第一」とあるのは、経師を何班かに分けたうちの第一班の意味であろう。

 (15)三依は宝字二年九月一九日に『金剛般若経』写経用紙を一四枚、二四日二八枚、二五日一枚、二七日二八枚、一〇月一日二枚、五日二八枚、八日二八枚、二一日二八枚、一〇月一一日二九枚、二一日一四枚、二二日二八枚、二四日一枚、二六日一四枚、二七日一四枚受取っている(古代五五・「金剛般若経紙充帳」・『大日本古文書』一四―一二七)。『大日本古文書』は史料(古代五五)と一括して一四―一四四に「(第一五紙)」として

      廿一日一 廿三日一 廿六日二 十月二日一 五日一 八日二 十二日二

 板持三依 十三日一 十五日一 廿二日一 廿四日一 廿六日一

      廿七日一 廿九日一 十一月二日二 合十九巻

        (裏書「廿一日ノアタリ(返上筆一 墨端一」)

を載せる。これは「書上帳」あるいは「写上帳」ともいうべきもので、『大日本古文書』一四―一六四の「後金剛般若経(?)写上帳」に「板持三依十八欠一」とあるのに対応するようである。

 (16)『金剛般若経』書写の仕事は、宝字二年一一月三日以前に終わったらしい。同日付の「東寺写経所解案(古代五六・『大日本古文書』一四―二三〇)によれば、経師布施料として三依は、二二八枚の写経にたいし布五端二丈九尺四寸を与えられている。この写経の最後はかなり急がされたようで、史料(古代五七・『大日本古文書』一四―二六二)の「経師等被充帳案」によれば、三依は一〇月四日「被」を貸与され、一一月二一日までの間に返上したことがわかる。「被」とは「衾」とも書き、ともに「フスマ」と読み、今日のフトンのようなもので、写経所での寝泊りに用いたものと思われる。

 (17)以上にみてきた史料以外に、三依についてはまだ年月日不明の三通の文書が残されている。史料(古代五八・『大日本古文書』一五―一〇二)は「経師櫟井馬甘・板持三依請暇解」で、三依と馬甘は三日の休暇を申請している。その理由は不明であるが、他の「請暇解」の例をみると、服喪・病気治療・祭神・計帳提出などの理由が知られる。

 『大日本古文書』一七―一一三は「阿弥陀悔過知識交名」で、三依は五文の悔過料を寄進している。悔過とは、本尊仏に僧尼が罪障を懴悔し、国家・皇室・一門の繁栄幸福を祈修する法会である。『大日本古文書』五―六七一~六八三の神護景雲元年八月「阿弥陀悔過料資財帳」によれば、漆塗りの八角宝殿に阿弥陀仏がすでに天平一三年に安置されていた。あるいはこれに関係するのかもしれない。

 また『大日本古文書』一一―三八四によれば、三依は写紙九六帳にたいし銭五百七十六文を与えられたことがわかる。この史料は断簡で、年月日を確定できないが、写紙一帳六文という比率は、勝宝元年八月の一帳七文より低く、それ以前の史料とは推定できる。

 以上のように三依は、(17)勝宝元年以前から写経に従事し、(1)~(3)『仁王経疏』を勝宝二年四月に、(5)~(12)『金剛般若経』・『千手千眼経』・『新羂索経』・『薬師経』を宝字二年六月から九月に、(13)~(16)『金剛般若経』を宝字二年九月から一一月に書写したことがわかる。

 なお以上の説明の(11)・(16)などに「東寺写経所」とあるが、東大寺の略称で、『大日本古文書』編年文書には類例が多い。京都の東寺は平安京造営とともに創建され、奈良時代にはまだ存在していない。しかし平安時代に入ると、京都東寺を「東大寺」と称したという主張が東寺側から提出され、庄園の領有をめぐる争いに発展した例のあることも付記しておきたい(『平安遺文』二三三号)。