天平勝宝四年(七五二)、盛大に大仏の開眼供養が行なわれたが、勝宝八歳(七五六)五月ついに聖武は崩御した。臨終に際して遺詔して、道祖(ふなど)王(新田部親王の子)を皇太子につけた。だが聖武の初七日が終わってすぐ、出雲守大伴古慈斐(こしび)と内豎(ないじゅ)(内舎人の見習か)淡海三船(おうみのみふね)が朝廷を誹謗したとして、衛士府に留置された。どのような事情があったのか不明であるが、古慈斐の伝記には「藤原仲満誣(しふ)るに誹謗を以てし、土左守に左降せり」と記され(『続記』宝亀八年八月一九日条)、『万葉集』にみえる大伴家持の歌(四四六六・四四六七)の左注には、三船の讒言によって、古慈斐が解任されたとある。不穏な空気のただよう中で、勝宝九歳三月、道祖王は皇太子を廃された。代わって皇太子となったのは、大炊王(舎人親王の子)である。仲麻呂は、すでに死去していた息子真従の妻の粟田諸兄を大炊王と結婚させ、自宅の田村第に大炊王を住まわせていたから、大炊王立太子は仲麻呂の意志であった。
橘諸兄はすでに勝宝八歳二月勤めを辞し、九歳正月薨じている。同年五月二〇日、編纂以来放置されていた「養老律令」が突如施行され、同日仲麻呂は紫微内相となって一切の文武の権を掌握した。七月二日橘諸兄の子の奈良麻呂一味のクーデター計画が発覚し、道祖王・黄文王・大伴古麻呂・多治比犢養(こうしかい)・小野東人・賀茂角足らは拷問によって殺された。他に自殺者、流刑者は多く、処刑者は四四三人にのぼった。奈良麻呂の処分が不明なのは、彼の孫娘檀林皇后(橘嘉智子)が『続紀』における奈良麻呂関係の記載を削ったためらしい。仲麻呂の兄の豊成さえ関係者として、大宰員外帥に左遷されている。
八月一八日、天平宝字と改元し、仲麻呂は権勢の絶頂にのぼった。彼の儒教主義の政策がつぎつぎに実行に移された。宝字二年八月、大炊王を即位させた。これが淳仁天皇である。同時に自らは大保となり、官号を唐風に改めた。また姓中に「恵美」を加え、名を「押勝(おしかつ)」とした。宝字三年六月大宰府に新羅征討の準備を命じ、一一月石山寺近辺に保良宮の建設を始めた。宝字四年正月、仲麻呂は太師(太政大臣)となったが、六月光明皇太后が崩じると有力な後援者を失った。宝字六年六月、孝謙上皇は国家の大事と賞罰の権は自分が、その他の小事は淳仁に委ねると命じた。しかも孝謙は側近に道鏡をむかえ、淳仁・仲麻呂に対抗したのである。宝字八年九月、仲麻呂は、一族を越前・美濃に配し、自らは都督四畿内・三関・近江・丹波・播磨等国兵事使となって、武力によって道鏡を除こうとした。しかし上皇方の対応も迅速で、仲麻呂は琵琶湖畔の勝野鬼江付近の戦で捕えられ斬首された。