藤原仲麻呂が乱をおこす前の天平宝字七年(七六三)のことであるが、『続紀』の一〇月六日条に興味深いひとつの記事がみえる(古代五九)。すなわち富田林市板持から出た左兵衛の板持鎌束のことに関する記載で、つぎのように記される。
左兵衛正七位下板振鎌束、渤海より至るとき、人を海に擲するを以て、勘当せられて獄に下る(a)。八年の乱に、獄囚充満して、因て其の居住を近江に移す(b)。初め王新福の本蕃に帰るや、駕船は爛脆し、送使判官平群虫麻呂等、其の完(まった)からざるを慮って、官に申して留ることを求む。是に於て史生已上は、皆其の行くことを停め、以て船を修理し、鎌束をして便ち船師と為て、新福等を送り発遣せしむ。事畢(おわ)って帰る日、我が学生の高内弓、其の妻高氏、及び男の広成、緑児一人、乳母一人、并びに入唐学問僧戒融、優婆塞一人、渤海より転じて相隨いて帰朝す。
海中にして風に遭いて、向う所、方に迷う。柂師(かじとり)・水手(かこ)は波の為に没せらる。時に鎌束議して曰く、異方の婦女今船上に在り、又此の優婆塞、衆人に異なり、一食に数粒にして、日を経て飢えず。風漂の災いまだ必らずしも此に由らずんばあらず。乃ち水手をして、内弓が妻并びに緑児、乳母、優婆塞の四人を撮りて挙げて海に擲す。風勢は猶猛くして、漂流すること十余日にして、隠岐国に着く(c)。
この史料に「板振鎌束」と記されるが、諸種の写本の中には板持と記すものもあり、板振は他に類例のない氏であるから、板振は板持の誤りとみてよい。
この記事について、つぎの二、三の点が注意される。
その一、この史料は「左兵衛……獄に下る」(a)、「八年の乱……近江に移す」(b)、「初め王新福……隠岐国に着く」(c)の三部分から成るが、宝字七年一〇月六日のことに関する記載でありながら、一年のちの「八年の乱」(藤原仲麻呂の乱をさすこというまでもない)のことまで述べている。これは編年体の国史が、大体において某年月日ごとにその月日におきた出来事を記す原則をとっているのに照して異様である。これは『続紀』の編者が、宝字七年よりも一年のちのことまで、筆をすべらせてしまったというべきである。本来なら板振鎌束に関する史料を宝字七年一〇月六日の条に掲げる際に(b)を削り(a)と(c)を掲げてつなぎ合せておけばよかったはずである。しかし続紀編者が(b)を削らずに掲げておいてくれたので、仲麻呂の乱で獄囚が充満し、そのため鎌束が近江に移されたことまで知られるわけで、(b)は簡単な字句であるが興味深い。それにしても(b)は、獄囚充満のために鎌束が放免されて近江に移ったのか、右の文では明らかでない。つぎに、記事は鎌束が勘当されて獄に下ったのが宝字七年一〇月六日のことであるのか、彼が隠岐に漂着したのがこの日であるのか、少し迷わせるが、隠岐に着いたのちに投獄されたのであるから、一〇月六日に隠岐に着き、それよりのちの日に投獄されたと解するのはおかしいことで、一〇月六日条にかかる記事内容は、彼が投獄されたことであると解すべきであろう。
その二、史料は送渤海(高麗)使使に関する記載であるが、入唐留学生や留学僧のこと、航海中の状態などを物語る点でも興味深いものがある。学生高内弓の妻は異方婦女と記されるから中国人であり、二人は国際結婚の例によく引用されるが、高内弓は最初から中国人流の三字の姓名であったのか、はじめは日本人に多い四字などの姓名であったのを入唐後に中国流に改めたのか、二つの場合が考えられるが、高内弓の名は『続紀』のこの日の条にだけしかみえないから、上のいずれか一方にきめる手がかりはない。
航海中の風浪の原因は、異方の婦女や、衆人と異なる優婆塞が乗船しているからだとして、鎌束が内弓の妻・緑児・乳母・優婆塞の四人を海中に投げ入れたというのは(内弓の男広成が免れたのは、広成は高氏を母とせず、内弓の入唐前に日本で生まれたからであろう)、古代における航海中の信仰や民俗の一端を示している。そのような日本の民俗をのべたものとして、たとえば『魏志倭人伝』につぎのような記載がある。「其の行来・渡海、中国に詣(いた)るには、恆(つね)に一人をして頭を梳(くしけず)らず、機蝨(きしつ)(しらみ)を去らず、衣服垢汚、肉を食(くら)わず、婦人を近づけず、喪人の如くせしむ。之を名づけて持衰と為す、若(も)し行く者吉善なれば、共に其の生口・財物を顧し、若し疾病有り、暴害に遭えば、便ち之を殺さんと欲す。其の持衰謹まずと謂えばなり」と。三世紀と八世紀という時代の差や、信仰内容・民俗形態のちがいはあるが、異様なものの存在が神のたたりをおこして風浪がおきると考える点で共通したものがあると思う。
その三、『続紀』の記載についてとくに異様に感ずるのは鎌束の官位である。正七位下は兵衛府大尉の相当位であり(督は従五位上、佐は正六位下)、彼の位は少尉(従七位上)大志(従八位上)少志(従八位下)よりも高く、単なる兵衛でも特殊な事情で大尉と同位になることはまったくあり得ないわけでないが、それにしても兵衛として位階が知られる大初位下丈部福道(『続日本後紀』天長一〇年二月二〇日条)少初位上出雲臣国継(神亀三年「山背国愛宕郡雲上里計帳」『大日本古文書』一―三三七)無位次田連福徳(天平五年「右京計帳」『大日本古文書』一―四八七)などにくらべると異様の感を免れない。『続紀』編者がこの記事を掲げたのは、史料の内容がかなり注意を引く事件であったためであろうが、『続紀』の編集方針をみると、叙位の記事は大体五位ぐらいまでの異動を主として記すたて前をとっており、死去の記事は五位の場合までであり、三位以上の場合は伝記を掲げ、四位と五位は単に死去のことだけ記す方針(若干の例外はあるが)をとっている。これを参照すると、下級官人の一兵衛に関することをこのようにかなり長い文章で記したのは珍しいといわねばならない。
また、兵衛に貢進されるには内六位以下八位以上の人の子(位子)で二一歳に達し役任のない者か、あるいは郡司の子弟(この場合、任用年令の規定は令にみえない)から採用する二つのコースがあるが、鎌束がもし位子で無位から兵衛にとられたのならば四回の考(官吏などの成績・才能を調べて優劣を考え定めること。二九歳・三七歳・四五歳・五三歳のとき)で三回は八考上、一回は四考中・四考上であったら正八位上になれる可能性はあるが、はたして四回の考のうち三回まで八考上で通すことができるであろうか、それは困難と思われる。
ところで鎌束の位階正七位下について『国史大系』の編者は頭註で何も述べていないが、佐伯有義氏校訂の朝日新聞社本の頭註に「左兵衛、原本衛の下左の字あり、諸本に拠て削る」と記しており、朝日本の底本、明暦三年立野春節校訂版本には「左兵衛左」とあったことが知られる。
ここで参照されるのが『続日本後紀』承和一一年八月一五日条の「紀伊国名草郡人右兵衛従六位下紀堤臣清継賜二姓朝臣一」という記載である。この清継は右兵衛で、その官位の従六位下は大尉(正七位下)よりも二階高く、すなわちさきの鎌束よりさらに二階も高く、一層異様である。清継の従六位下について佐伯氏は頭註で「右兵衛、此下脱字あるべし」と記すだけであるが、国史大系の編者は「纂詁云、此下恐脱大尉二字」と註しており(纂詁は国史大系の凡例に「続日本後紀纂詁」とあるだけでどういう系統の書物か、知りえていない)、兵衛府の大尉は正七位下であるが、官人の位階には官位相当でない場合もあるから、清継の場合は纂詁にいうように右兵衛大尉の大尉が脱したと考えるべきであろう。これならば単なる一兵衛が大尉(正七位下)少尉(従七位上)大志(従八位上)少志(従八位下)よりも位が高いという非常な不自然さは解消する。
そうすると鎌束の場合も立野春節校訂版本に「左兵衛左」とあったのに注意すべきで、「左兵衛左」は「左兵衛佐」の転訛にちがいなく、鎌束は左兵衛佐であったと考える方がよく、これで前記の不自然さはなくなる。したがって、佐伯氏が春節校訂版本の「左兵衛左」を諸本によって「左兵衛」とされたのはよくなく、春節校訂版本の通りに「左兵衛左」とし、頭註で左兵衛の下の左は佐の転訛、あるいは佐の誤り、というように述べるべきであろう。
同様のことが問題になるのは『続紀』の宝字五年五月一三日条の「左兵衛河内国志紀郡人正八位上達沙仁徳・散位正六位下達沙牛養二人賜二姓朝日連一。後改為二嶋野連一」という記載である。朝日連のカバネを賜わったのちの改姓のことまで述べたのは、編年体の国史の記載方法に反するというのではないが、述べなくともよいわけで、これも主文の内容の月日から将来のことに言及した例である。つぎに左兵衛の達沙仁徳の官位正八位上は兵衛府の少尉(従七位上)より低いが、大志(従八位上)少志(従八位下)よりも二階ないし三階高い。四等官の下に属すはずの兵衛が、その大志・少志よりも位が高い場合がありえたのであろうか。鎌束・清継の場合は古写本・古版本に手がかりとなる文字が存したので、鎌束は左兵衛佐、清継は右兵衛佐が正しいと判断できたが、達沙仁徳の場合は国史大系本・朝日新聞社本に頭註はなく、その官位正八位上は特例か、誤りか、いずれともきめ手はない。
二官八省の場合、四等官と伴部・使部との書き方を誤ることは少なく、誤っていてもすぐそれはわかるが、五衛府の場合は、たとえば兵衛の下に文字があるかないかで、四等官か四等官の下の兵衛かちがってくるわけで、文献をよむとき、あるいは史料をあつかうとき注意しなければならない。