道鏡政権と河内西京

768 ~ 770

藤原仲麻呂の乱の翌月、称徳天皇は仲麻呂の兄の豊成を大臣に復位させ、僧道鏡を大臣禅師とし、唐風の官号を改めた。一〇月には淳仁天皇を退位させ、同日淳仁の兄弟の船王・池田王にも罪ありとして隠岐・土左へ流した。

 年がかわって元号も改められた天平神護元年(七六五)八月、淳仁の甥にあたる和気王が、紀益女という巫女(ふじょ)を寵愛して、謀反を計ったというので絞首された。参議粟田道麻呂・兵部大輔大津大浦・式部員外少輔石川永年もこの一件で流罪となった。同年一〇月、淡路の配所の垣を越えようとして、大炊親王(淳仁)は守備兵に防がれ、翌日死去した。淳仁という謚号は明治三年以後で、彼はそれまでは「廃帝」とよばれていたのである。

 閏一〇月、道鏡は太政大臣禅師に任せられた。これより先の九月、行宮を大和・河内・和泉国などにつくらせ紀伊行幸に出発し、紀伊をめぐり河内国弓削行宮に着き、一〇月三〇日弓削寺に礼仏、翌日弓削寺と智識寺に食封を施入、翌々日に道鏡の任官があったのである。

 天平神護元年一一月、右大臣藤原豊成が死去すると、道鏡の地位はより確かなものとなった。翌二年四月には自ら聖武の皇子と名乗る人物があらわれたが、偽であったため流刑となっている。偽りとはいえ、天皇の子を名乗る点に時代の特色が、うかがえる。同年一〇月には道鏡は法王となり、翌年三月法王宮職が設置された。同年八月に神護景雲と改元、神護景雲三年(七六九)五月には塩焼王(氷上塩焼)の子の志計志麻呂(しけしまろ)擁立の陰謀が発覚した。塩焼王は仲麻呂の乱で処刑されたが、その妻の不破内親王は称徳の異母妹である。この事件で内親王の籍を奪われ、志計志麻呂も流罪となった。

 同じ頃、九州の宇佐八幡宮から、道鏡を皇位につけよとの神託があったと報せてきた。称徳は迷ったが、和気清麻呂を使者として、再度神意を聞くこととした。有名な宇佐八幡宮神託事件である。清麻呂は道鏡排斥の神託を復命した。しかし逆に道鏡一派によって、清麻呂は穢麻呂と改名、姉の広虫も狭虫と改名のうえ、ともに流罪となった。だが道鏡も皇位につけなかったのである。

 この年一〇月、称徳は由義宮(弓削宮)(ゆげのみや)に行幸、由義宮を西京とし河内国を河内職と改めた。翌年八月、称徳が死去すると、道鏡政権にも終止符がうたれるのである。

536 道鏡政権ゆかりの由義宮跡(八尾市)

 道鏡政権の七年間は後に「政刑日に峻(さか)しく、殺戮(さつりく)みだりに加えき」とか「軽々しく力役を起こし、務めて伽藍を繕(つくろえ)えり。公私剛喪して国用足らず」とか批判された(『続紀』宝亀元年八月一七日条)。政治上の諸事件はすでに述べたが、伽藍の造営については、西大寺・西隆寺建立や百万基の三重小塔の作製をさしている。西大寺は聖武朝の東大寺を念頭に置いたもので、二つの金堂と二つの塔をもつ広大な寺院である。西隆寺はこれに隣接する尼寺で、東大寺に対する法華寺に匹敵した。西大寺東塔心礎用の石は大きさ方一丈、厚さ九尺で数千人の人夫を要したという。東大寺の東の飯盛山から、九日をかけて搬入したが、石に祟りがあるとのことで酒をかけて焼き砕いてしまった。信仰が造営に堕し、造営さえ真面目でなくなっていたことがうかがえる。百万基の小塔は木製で、高さ四寸五分、基の径三寸五分、露盤の下には世界最古の印刷物の陀羅尼が納められた。現存するのは四万基程度といわれるが、信仰を量で換算しようというものである。仏教政治の爛熟の姿を示している。また造寺・造仏以外にも、屋根に瑠璃(色ガラス)の瓦をふいた玉殿を皇居につくり、由義宮を造営するなど莫大な費用を浪費したのである。

 また由義宮を西京と名づけたのは、神護景雲三年一〇月三〇日のことであった。翌年正月一二日には「大県・若江・高安等の郡、百姓の宅の由義宮に入る者は、其の価を酬給す」とある。宮の範囲は弓削から北方にかけて設定されたらしい。南方へ設定すれば称徳の厚遇した智識寺を含むことになるが、そうしなかった理由をあえて臆測すれば、藤原氏と深い関係をもつ田辺氏の本貫が安宿郡であり、やはり藤原氏に近い県犬養氏の本貫が古市郡であったことと関係するものかも知れない。