称徳天皇は神護景雲四年八月四日死去したが、皇太子も立てられていないし、生涯独身であったから子供もなかった。皇位を誰がつぐか大きな問題であった。称徳死去の日、左大臣藤原永手、右大臣吉備真備、参議兵部卿藤原宿奈麻呂、参議民部卿藤原縄麻呂、参議式部卿石上宅嗣、近衛大将藤原蔵下麻呂の六人が宮中で合議し、白壁王を皇太子とすることを遺詔の形で決定した(537)。『日本紀略』にみえる藤原百川伝によると、吉備真備は文室浄三(智努王。天武の皇子の長親王の子)を推した。永手はこれに反対したし、浄三自身も固辞したので、浄三の弟の文室大市が候補となった。ほとんど大市に決定し、宣命をよむばかりになったとき、藤原百川は永手・良継と謀って、白壁王を皇太子とする宣命をよみあげたという。いわば藤原氏一族によって、静かなるクーデターが実施されたのである。
だがこれは藤原氏にとっても、きわめて重大な意味をもつ事件であった。白壁王を擁立したというのは、壬申の乱以来百年余にわたって皇統の中心にあった天武系を見捨てることを意味した。白壁王は天智天皇の子の志貴皇子と紀諸人の娘の橡(とち)姫の間に生まれ、天武系とのつながりは聖武の娘の井上内親王(母は県犬養広刀自。称徳の異母妹)を妻としていることによった。称徳の時代には何度も疑惑の目を向けられたが、「酒を縦(ほしいまま)にして迹(あと)を晦(くら)まして」身を守った。皇統を天智系にかえることによって、人心の一新を計り、しかもこの動きを藤原氏が主導することで、藤原氏の地位を確立しようとするものであった。藤原氏、ことに百川の属する式家の全盛期はこうして開始された。
一〇月一日、即位の儀式があり、光仁天皇が出現した。同日、宝亀元年と改元する。吉備真備は七〇歳となり、出仕を辞去した。文室浄三も間もなく死去する。一一月六日、井上内親王を皇后とし、翌二年一月二三日他戸親王(光仁と井上の子)を皇太子とした。光仁天皇を中心とする皇室の陣容が整ったかにみえた。しかし宝亀三年(七七二)三月、井上皇后は巫蠱(ふこ)に坐して廃せられ、五月にはそれに関連して他戸皇太子も廃された。事件の内容は詳しくはわからないが、「魘魅大逆の事、一二遍のみにあらず」とされるから、天皇を呪い殺そうとしたというのであろう。井上・他戸は大和国宇智郡に幽閉され、三年後にともに死去している。宝亀四年正月、山部親王(母は高野新笠(たかののにいかさ))を皇太子とし、ようやく落着いた。井上は聖武の娘であるから、他戸が天皇位につけば、天武系が復活することを恐れた百川の措置であろう。光仁朝初期の動揺は一応、山部皇太子の設定で安定する。
つぎに光仁朝の諸政策についてみておこう。まず第一に着手したのが、仏教政治の否定である。道鏡を下野薬師寺へ配流、一派を処分した。仏教本来の姿への復帰をねらって、山林寺院での修行を推めた。乱れていた僧尼の籍帳に検察を加え、律令の仏教統制方針にもどした。
第二に実施したのが、冗官の整理と放漫財政の緊縮である。「政、倹約を先として、志、憂勤にあり」と自ら語るとおりであった。第三に民政については、兵制を改めて豊かな農民からのみ兵士を徴発することにした。また国郡司を厳しく監督し、民力の休養を計った。
これらの諸政策はいずれも、律令体制の再建として捉えられるものである。しかし光仁は皇位についたときすでに六二歳の老齢であった。その後一一年、政治振興に奮闘してきたが、この年三月、蝦夷地に伊治公呰麻呂(いじのきみあざまろ)を中心とする大反乱が起った。光仁はつぎつぎに征討使を派遣したが、効果はなかった。翌年正月天応と改元、四月、位を山部皇太子に譲った。桓武天皇の即位である。
桓武は弟の早良親王を皇太子とし、光仁の諸政策を受け継ぎ、さらにその実施を推めてゆく。平城の都が放棄されるのはこの後四年、延暦三年(七八四)のことであるが、桓武の即位と同時に旧時代は終わったといってさしつかえなかろう。