竹内街道その後

773 ~ 775

壬申の乱のさいに近江朝廷軍と大海人軍とが、河内国府付近で戦ったことはすでに述べたが、大海人軍は圧倒されて、国分―田辺―懼坂(かしこざか)と退却した。それに対し追撃する近江朝廷軍は、駒ケ谷―飛鳥―大坂(穴虫峠)を通ったらしい。退却路と同じ道を通らなかったのは、退却軍が山中に散開し待伏せて奇襲する可能性を考えてのことであろう。大坂の南の石手道にも、大海人軍が配置された。これは竹内街道のことであろう。

 竹内街道は飛鳥で大坂道と合流するように理解されているが、そう考えるよりも磯長谷を通って直進し、羽曳野丘陵山麓の現在の宮町で直角に北へ折れて、野中で丹比道と合流したとみたい。推古紀二一年(六一三)条の「難波より京に至る大道を置く」は、計画道路であるから山間部を除けばできる限り直線路と考えた方がよいからである。さらに聖徳太子の同母弟の征新羅将軍来目皇子の墓は、埴生坂にあることを考えれば、太子の廟とともに推定路の傍に位置することになるからである(538)。

538 難波と飛鳥を結ぶ竹内街道

 河内飛鳥を通り穴虫を越える道が本道で、竹内越えが間道となっていたものが、推古朝には逆に竹内越えを本道とし磯長谷―宮町―野中を大道としたのではなかろうか。しかし竹内峠への距離では、駒ケ谷―飛鳥経由の方が近く、その後も多くの人びとはその道を利用したといえよう。そして壬申の乱の時期にはふたたび穴虫越えが、本道の位置を獲得したものと思われる。

 持統朝の藤原京の位置と範囲は、横大路と中ツ道・下ツ道を基準として設定された。横大路と連接する竹内街道の重要性は増しこそすれ、減ずることはなかったであろう。

 だが元明朝に北方の平城に都が移されると、事情は変わった。平城京は下ツ道を中央の朱雀大路とし、東西幅で藤原京の二倍、南北は一・五倍で設計された(岸俊男「飛鳥から平城へ」『古代の日本』五近畿)。横大路は京外のはるか南の方に位置し、難波への連絡路の意味を失ってしまった。

 かわって重要な位置をしめたのは、竜田道と大和川である。さらに平城京の北方より木津川・淀川ぞいに摂津への通路も開かれた。和銅四年(七一一)正月、山背国相楽郡岡田駅(相楽郡加茂)・綴喜郡山本駅(綴喜郡三山木)・河内国交野郡楠葉駅(枚方市楠葉)・摂津国嶋上郡大原駅(島上郡桜井ヵ)・嶋下郡殖村駅(摂津市鳥飼ヵ)の新設があったが、これがそれにあたる。ただしこれは本道でないことは、和銅五年の高安烽の設置を見れば明らかで、新設の駅を結ぶ道は、バイパスとみられる。また聖武天皇が河内智識寺の廬舎那仏を見て自分も造りたいと思い、大仏造営を発願したが、智識寺は本道竜田道にそっていたと考えられる。

 称徳天皇は天平神護元年(七六五)一〇月、紀伊国へ行幸したが、その経路は大和高市郡小治田―宇智―伊都と紀の川ぞいを通り、名草―海部岸村行宮から転じて海岸ぞいを北上し、和泉国日根郡深日―新治―河内国丹比郡―弓削を通っている。石川・錦部郡をとりまくような経路である。大坂越え、竹内越えは完全に官道としての役割を失ってしまったといえよう。