奈良朝に僧行基(六六八~七四九)は民間に布教し、信者たちによって建てられた寺が約四九院をかぞえ(539)、その分布は、河内国では河内郡・丹比郡・茨田郡・交野郡などにみられるが、石川郡や錦部郡にはない。また運脚夫や役民の救護施設である布施屋の設置、架橋や池溝開発などにも行基は活躍したが、これも石川郡や錦部郡にはない。それではこの地域に行基の影響がおよばなかったのかというと、そうではない。
年代 | 年齢 | 寺院名 | 所在地 |
---|---|---|---|
慶雲1 | 37 | 家原寺 | 和泉国大鳥郡家原 |
2 | 38 | 大修恵院 | 〃 〃 大村 |
3 | 39 | 蜂田寺 | 〃 和泉郡横山 |
4 | 40 | 生馬山房 | 大和国平群郡生馬 |
和銅1 | 41 | 神鳳寺 | 和泉国大鳥郡大鳥 |
霊亀2 | 49 | 恩光寺 | 大和国平群郡床室 |
養老2 | 51 | 隆福院 | 〃 添下郡登美 |
4 | 53 | 石凝院 | 河内国河内郡日下 |
5 | 54 | 菅原寺 | 右京三条三坊 |
神亀1 | 57 | 清浄土院 | 和泉国大鳥郡葦田 |
尼院 | 〃 〃 草部 | ||
2 | 58 | 久修園院 | 河内国交野郡一条 |
3 | 59 | 桧尾池院 | 和泉国大鳥郡和田 |
4 | 60 | 大野寺 | 〃 〃 大野 |
尼院 | 〃 〃 〃 | ||
天平2 | 63 | 善源院 | 摂津国西生郡津守 |
尼院 | 〃 〃 〃 | ||
船息院 | 〃 兎原郡宇治 | ||
尼院 | 〃 〃 〃 | ||
高瀬橋院 | 〃 嶋下郡穂積 | ||
尼院 | 〃 〃 〃 | ||
楊津院 | 〃 河辺郡楊津 | ||
3 | 64 | 狭山池院 | 河内国丹比郡狭山郷 |
尼院 | 〃 〃 〃 | ||
昆陽施院 | 摂津国河辺郡山本 | ||
法禅院 | 山城国紀伊郡深草 | ||
河原院 | 〃 葛野郡大屋 | ||
大井院 | 〃 〃 大井 | ||
山崎院 | 〃 乙訓郡山崎 | ||
隆福尼院 | 大和国添下郡登美 | ||
5 | 66 | 救方院 | 河内国茨田郡伊香 |
薦田尼院 | 〃 〃 〃 | ||
6 | 67 | 隆池院 | 和泉国和泉郡下池田 |
深井尼院 | 〃 大鳥郡深井 | ||
吉田院 | 山城国愛宕郡 | ||
沙田院 | 摂津国住吉郡住吉 | ||
呉坂院 | 〃 〃 御津 | ||
9 | 70 | 鶴田池院 | 和泉国大鳥郡山田 |
頭陀院 | 大和国添下郡矢田岡本 | ||
尼院 | 〃 〃 〃 | ||
12 | 73 | 泉橋院 | 山城国相楽郡大狛 |
隆福尼院 | 〃 〃 〃 | ||
布施院 | 〃 紀伊郡石井 | ||
尼院 | 〃 〃 〃 | ||
17 | 78 | 大福院 | 摂津国西生郡御津 |
尼院 | 〃 〃 〃 | ||
難波度院 | 〃 〃 〃 | ||
枚松院 | 〃 〃 〃 | ||
作蓋部院 | 〃 〃 〃 |
(『行基年譜』)
四九院のひとつ堺市の大野寺に、きわめて珍しい土製の塔、土塔が存在する。一辺約五六メートル、高さ約九メートルの四角錐様のもので、その表面を瓦で葺いていた。この瓦には人名が箆書され、資財の寄進者名か、土塔の築造参加者名で、行基の信者たちである(井上薫『行基』)。人名は約九〇例が検出され(森浩一「大野寺土塔と人名瓦について」『文化史学』一二)、「大伴[ 」・「板持[ 」などは石川郡に関係したものと思われる。
さらに池溝開発の例では、狭山池の場合が最も本郡に近く、当然本郡の信者も事業に参加したであろう。中世の重源(ちょうげん)の修理の時のものであるが、古墳の家形石棺を樋として転用している。お亀石古墳(富田林市中野)から運ばれた石棺と伝えられている。本地域の人びとが大野寺へ、狭山へと通った道路は確定できないが、のちの東高野街道、西高野街道、廿山越え、須賀越えなど官道以外の民衆による踏み分け道は数多かったであろう。
とくに東高野街道―大津街道―和泉府中の道は、河内国府と和泉国府を最短距離で結ぶ道として、重要な役割をつとめたものと思われる。公用の使者であれば丹比道―(堺市草部)―南海道を経由したであろうが、私人や民衆はそのような迂回路はとらなかったであろう。