奈良朝までの墓誌の数は、一八例(平安朝の肥後の例を加えると一九例)である(540)。現在までのところ、古墳時代の例はなく、古墳の終末とともに墓誌が出現してくる。墓誌は本来中国に発生し発達したもので、形態が整ったのは隋から唐にかけてであるといわれる。ただし平方形の石に誌銘を刻み、同形同大の蓋石をかぶせて、両者を一重ねにして墓へ入れたという(楢崎彰一「墳墓」『日本の考古学』Ⅶ)。この制が日本に輸入されて、変形をしたのである。日本の場合は(540)のように石製のものは一例で、大きさも二六・〇センチ×一八・二センチとはるかに小形である。
また発見地をみると、畿内以外が四例で、しかも肥後出土のものは年代がはるかに下る。他の三例は吉備文化圏に属し、墓誌の文化は畿内・吉備文化圏のものといえよう。さらに畿内に属する例のうちで、二例が石川郡磯長発見のもの、一例が石川郡山城出身者、一例が石川郡の隣郡の安宿郡発見、一例が石川郡の大和側の隣郡の葛上郡発見と五例が石川郡付近に集中している。畿内発見例の三分の一を占め、いかに南河内と墓誌文化の関係が深いかがうかがえる(541)。これは古来よりこの地に外来氏族が多く、新文化を受容する基盤のあったことと、仏教文化の影響により火葬の風が浸透したことによるのであろう。
番号 | 墓誌主人 | 出土地 | 年代 | 材質 | 形状 | 測定値(単位センチ) | 出土年月 | 主用伴出品 | 備考 | |
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年号 | 西暦 | |||||||||
1 | 船首王後 | 大阪府柏原市国分町松岳山 | 天智七年 | 六六八 | 青銅 | 短冊形板 | 縦二九・四、横六・七、厚〇・一五 | 江戸時代 | (土葬) | (国宝)東京・三井高遂氏 |
2 | 小野朝臣毛人 | 京都市左京区修学院町高野字宮山 | 天武六年 | 六七七 | 金銅 | 短冊形板 | 縦五八・八、横五・八、厚〇・三 | 慶長一八年一二月(大正三年五月再発掘) | (土葬) | (国宝)京都・祟道神社 |
3 | 文忌寸祢麻呂 | 奈良県宇陀郡榛原町八滝字笠松 | 慶雲四年 | 七〇七 | 青銅 | 短冊形板 | 縦二六・一、横四・三、厚〇・二 | 天保二年九月 | 瑠璃製骨壺、銅製骨壺容器(火葬) | (国宝)国有・東京国立博物館 |
4 | 威奈真人大村 | 奈良県北葛城郡香芝町穴虫字馬場 | 慶雲四年 | 七〇七 | 金銅 | 鋺(合子)蓋 | 高一三・二、径二四・四、厚〇・一五 | 明和七年 | 漆製骨壺・陶製外容器(火葬) | (国宝)大阪・四天王寺 |
5 | 下道朝臣圀勝・圀依母夫人 | 岡山県小田郡矢掛町東三成 | 和銅元年 | 七〇八 | 青銅 | 鋺蓋 | 高八・八、径二四・七、厚〇・六 | 元禄一二年一一月 | 石櫃(推定)陶製骨壺容器(火葬) | (重文)岡山・国勝寺 |
6 | 伊福吉部徳足比売 | 鳥取県岩美郡国府町宮下 | 和銅三年 | 七一〇 | 青銅 | 鋺蓋 | 高四・〇、径二六・四 | 安永三年六月(明治年間再掘) | 石櫃(火葬) | (重文)国有・東京国立博物館 |
7 | 僧道薬 | 奈良県天理市岩屋町西山 | 和銅七年 | 七一四 | 銀 | 短冊形板 | 縦一三・七五、横二・二、厚〇・二 | 昭和三一年一月 | 陶製骨壺(火葬) | 国有・奈良国立博物館 |
8 | 太朝臣安万侶 | 奈良市此瀬町字トンボ山 | 養老七年 | 七二三 | 銅 | 短冊形板 | 縦二九・一、横六・一、厚〇・一 | 昭和五四年一月 | 木櫃断片、漆喰断片、人骨、真珠四、鉄片二 | 奈良県立橿原考古学研究所 |
9 | 山代忌寸真作 | 奈良県五条市東阿田字稲口 | 神亀五年 | 七二八 | 金銅 | 短冊形板 | 縦二八・〇、横五・七、厚〇・三 | 昭和二七年五月 | (火葬) | (重文)国有・奈良国立博物館 |
10 | 小治田朝臣安萬侶 | 奈良県山辺郡都祁村字岡 | 神亀六年 | 七二九 | 金銅 | 短冊形板 | 縦二九・六、横六・二、厚〇・三五 | 明治四四年 | 木製蔵骨器・同容器・和銅銀銭・鉄板・二彩・土師器(火葬) | (重文)国有・東京国立博物館 |
(左琴) | 奈良県山辺郡都祁村字岡 | 神亀六年 | 七二九 | 青銅 | 短冊形板 | 縦一五・三、横二・八、厚〇・一五 | 明治四四年 | |||
(右書) | 奈良県山辺郡都祁村字岡 | 神亀六年 | 七二九 | 青銅 | 短冊形板 | 縦一五・七、横二・八、厚〇・一五 | 明治四四年 | |||
11 | 美努連岡萬 | 奈良県生駒市萩原 | 天平二年 | 七三〇 | 青銅 | 縦矩形板 | 縦二九・四、横二〇・六、厚〇・三 | 明治五年一一月 | (火葬) | (重文)国有・東京国立博物館 |
12 | 吉備真備母夫人楊貴氏 | 奈良県五条市大沢町火打 | 天平一一年 | 七三九 | 瓦磚 | 横矩形板 | 縦二〇・三、横二七・二七、厚五・四五 | 享保一三年(現亡失) | 陶製骨壺(火葬) | 拓本現存・偽作説あり |
13 | 僧行基 | 奈良県生駒市有里 | 天平二一年 | 七四九 | 金銅 | 筒(瓶) | 残欠・縦一〇・〇、横六・七、厚〇・六 | 文暦二年八月 | 銀製骨壺・二重銅製骨壺容器(火葬) | 国有・奈良国立博物館 |
14 | 石川朝臣年足 | 大阪府高槻市真上 | 天平宝字六年 | 七六二 | 金銅 | 縦矩形板 | 縦二九・六、横一〇・三、厚〇・三 | 文政三年三月 | 木製蔵骨器・同容器(火葬) | (国宝)大阪・田中伊久氏 |
15 | 宇治宿祢某 | 京都市右京区大枝塚原 | 神護景雲二年(慶雲二年) | 七六八(七〇五) | 青銅 | 縦矩形板 | 残欠・縦九・三、横五・六、厚〇・〇五 | 大正六年二月 | 石櫃・銅製骨壺(火葬) | 国有・東京国立博物館 |
16 | 高屋連枚人 | 大阪府南河内郡太子町太子 | 宝亀七年 | 七七六 | 砂岩 | 縦矩形板 | 縦二六・〇、横一八・二、厚一一・八 | 延享年間 | (火葬) | (重文)大阪・叡福寺 |
17 | 紀朝臣吉継 | 大阪府南河内郡太子町春日 | 延暦三年 | 七八四 | 瓦磚 | 縦矩形板 | 縦二五・〇、横一五・六、厚六・〇 | 江戸時代 | (火葬) | (重文)大阪・妙見寺 |
18 | 左衛士府某夫人下道氏 | 岡山県小田郡矢掛町東三成 | 不明 | 不明 | 瓦磚 | 縦矩形板 | 残欠・縦一五・七八、横一一・九、厚三・〇三 | 明治初年 | (火葬) | 拓本現存 |
つぎにこれら五例について、まず安宿郡の船首王後のものからみてゆこう。
船首王後(ふなのおびとおうご)の墓誌は、柏原市国分松岳山で江戸時代に出土したと伝えられる(542)。松岳山は大和川ぞいの独立丘陵で、山頂には四世紀後半を下らないとされる前期古墳をはじめ、数個の古墳がみられる。しかし墓誌の出土地点は不明であるし、埋納状態なども一切明らかにしえない。墓誌は長二九・四センチ、幅六・七センチ、厚一・五ミリの銅版で、表裏に四行ずつの銘文がある。原文は漢文であるが、釈文にして示すとつぎのようになっている。
惟(おも)うに船氏の故王後の首は、是れ船氏の中祖(なかつおや)。王智仁の首の児、那沛故の首の子なり。乎娑陀宮(おさだのみや)に治天下天皇(あめのしたしろしめしすめらみこと)(敏達天皇)の世に生る。等由羅宮(とゆらのみや)に治天下天皇(推古天皇)の朝に仕え奉り、阿須迦宮(あすかのみや)に治天下天皇(舒明天皇)の朝に至る。天皇、照見して其の才の異なり、仕えて功勲有るを知り、勅して官位大仁を賜い、品を第三と為す。阿須迦の天皇の末の歳(ほし)は辛丑(六四一年)に次(やど)る十二月三日庚寅に殞亡す。故(かれ)、戊辰年(六六八年)十二月、松岳山上に殯葬す。婦の安理故能刀自(ありこのとじ)と共に墓を同じくし、其の大兄刀羅古(とらこ)の首の墓と並びて墓を作る也。即ち万代の霊基を安く保ち、永劫(えいごう)の宝地を牢固にせんと為(す)る也。
墓誌にみえる人名のうちで、他の史料と一致するものは王智仁のみである。王智仁は『姓氏録』右京諸蕃下の船連の条に「大阿郎王三世孫智仁君之後也」とある。大阿郎王は『続紀』延暦九年七月一七日条にみえる津連真道の上表文中に「難波高津朝御宇仁徳天皇、辰孫王長子太阿郎王を以て近侍と為す。太阿郎王の子亥陽君、亥陽君の子午定君、午定君三男を生めり。長子は味沙、仲子は辰爾、季子は麻呂なり。此より別れて、始めて三姓となる。各職(つかさ)どる所に因りて以て氏を命す。葛井、船、津連等即ちこれ也」とある。『姓氏録』と対応させれば、智仁は辰爾である。墓誌に智仁の子とされる那沛故は他の史料にはみえない。墓誌の主人公の王後も他の史料にはみえないが、『書紀』の推古一六年(六〇八)に隋使斐世清の接待役の一人の船史王平を「王乎」とみて、王後とする説もある。この説の当否は判定しがたい。
王後が妻とともに改葬されたのは、天智七年(六六八)であるが、墓誌はそのとき同時に埋められたとは考えがたい。銘文が闕字の礼(尊敬する気持をあらわすため、人名を記すさいに一字あける書きかた)によっていること、「官位」の用例の初見が慶雲二年(七〇五)であることから、天武朝末年以降の作製という。ただ墓誌板の表裏に文字を刻んでいることや、板の縦横比率からみると八世紀初頭を下らないとする(東野治之「船王後墓誌」奈良文化財研究所飛鳥資料館『日本古代の墓誌』)。
船氏の墓所については『日本後紀』延暦一八年(七九九)三月一三日条に、葛井・船・津氏の墓地を丹比郡野中寺以南の寺山と記している。王後の墓誌は墓域を明示する必要から追加副葬されたとみられ(東野治之前掲論文)、船氏は複数の墓処を持っていたのであろう。あるいは松岳山は古墳から火葬墓へ移行するまでの墓処で、寺山は名の示す通り寺に付属した墓山を意味し、この間に船氏らの墓制が転換したため墓処を移動させたとも考えられる。