山代忌寸真作(やましろのいみきまつくり)の墓誌は、昭和二七年五月、奈良県五条市東阿田町稲口(当時大阿田村東阿田)で発見された。紀の川上流の吉野川ぞいで、栄山寺よりも上流にあたる。墓誌は銅版に鍍金されており、長さ二八・〇センチ、幅五・七センチ、厚さ三ミリ、表面の周縁に多数の小粒(魚子(ななこ))を刻んで飾りとし、境界線をひいて三行に区画し、銘文を刻んでいる(543)。
所知天下自軽天皇御世以来至于四継仕奉之人河内国石川郡
山代郷従六位上山代忌寸真作 戊辰十一月廿五日□□逝去
又妻京人同国郡郷移蚊屋忌寸秋庭 壬戌六月十日□□□逝
「所知天下、軽天皇自(よ)り以来」とは、文武天皇以来の意味である。「四継(よつぎ)に至りて仕え奉」るとは、文武・元明・元正・聖武の四代に仕えたことである。戊辰は神亀五年(七二八)、壬戌は養老六年(七二二)をさす。
山代忌寸真作の名は、史料(古代二九・『大日本古文書』二五―六四)に「養老五年籍山代郷戸主従六位上山代伊美吉真作戸口山代伊美吉大山年廿四注」とみえる。真作の名はこれ以外に残されておらず、墓誌とこの記述から推測する以外にない。
墓誌の銘文自体からは、文武・元明・元正・聖武の四代に仕えた河内国石川郡山代郷(河南町山城)の従六位上山代忌寸真作は、神亀五年一一月二五日に死去した。妻(京人)の蚊屋忌寸秋庭は河内国石川郡山代郷に戸籍を移し、養老六年六月一四日に死去したことがわかる。史料二九とあわせ考えれば、真作の位階は八年間不変であった。その理由は明らかではないが、妻の死後、あるいは彼も病気がちだったのかもしれない。
妻の蚊屋忌寸秋庭については、墓誌以外に史料はない。京人とあって左右京の別を示さないから、藤原京の時代に真作と結婚し、石川郡へ移ってきたのであろう。大山が二人の子供だとすると、彼の出生の年の文武二年(六九八)を契機として、異動したものであろう(岸俊男「山代忌寸真作と蚊屋忌寸秋庭」『日本古代籍帳の研究』)。大山については別項(「錦部氏・山代氏」)で、もう少し詳しく述べよう。史料二九が山代忌寸大村の勘籍であるのに、大村の名のみえない部分(養老五年籍)があるのは、従六位上の位階を持つ真作との関係を重視したためであろう。
石川郡山代郷の真作の墓誌が、なぜ遠く離れた阿田の地から発見されたのか、不明である。あるいはこの地に没したためとも思われるが、確証はない。ただ藤原武智麻呂創建という栄山寺や、武智麻呂墓の所在、式家良継の墓の存在や、井上内親王・他戸親王の流罪と死去の地が宇智郡であるから、この地は鎮魂の地と考えられたのかもしれない。