威奈大村墓誌・采女氏塋域碑

787 ~ 790

威奈大村(いなおおむら)の墓誌は、奈良県北葛城郡香芝町穴虫山で江戸時代の明和年間(一七六四~七二)開墾の際に発見された。遺骨をいれた漆器を金銅製の球状の香台付き合子(ごうす)に入れ、合子は直径二四・四センチで、中央より上下に分れ、身と蓋になっている。蓋の半球形の表面に十字詰三九行にわたり銘文がある。発見時にはさらにこれを大甕に入れてあったというが、現存するのは合子だけである(546)。

546 威奈大村骨蔵器

 銘文によれば少納言正五位下威奈大村は、宣化天皇の四世孫の威奈鏡公の第三子である。威奈鏡公は斉明朝の紫冠(三位に相当)であった。大村は持統朝に務広肆(従七位下相当)を授けられ、文武朝に少納言勤広肆(従六位下)、直広肆(従五位下)となった。大宝元年、律令の制定により、従五位下となり侍従を兼ねた。同四年正月従五位上を受け、慶雲二年左少弁を兼ねた。同一一月一六日越後城司に任命され、四年二月に正五位下にのぼり、同年四月二四日越城で病死した。時に四六歳であった。同年一一月二一日、大倭国葛木下郡山君里狛井山岡に葬った。

 威奈大村は『続紀』には猪名真人大村と記され、大宝三年一〇月持統太上天皇の葬儀に御装副官となり、慶雲三年閏正月越後守に任命されたことがわかる。前者は墓誌になく、後者は墓誌では慶雲二年一一月越後城司に任ぜられたとある。若干のくいちがいはあるが、同一人とみてよかろう。また大村は没年から逆算すれば、天智称制元年(六六二)生まれで、そのために父の官位を斉明朝の時点で記したのであろう(東野治之「威奈大村骨蔵器」『前掲書』)。父の鏡を『書紀』の猪名公高見にあてる可能性は高い。高見は白雉元年二月一五日の改元儀式に、雉をのせた輿をかつぎ、天武元年一二月大紫(正三位)で薨じたことが『書紀』に記されている。

 為奈真人は『姓氏録』右京皇別と摂津皇別に「宣化天皇皇子火焔王之後也」とある。摂津川辺郡に猪名郷(尼崎市)、豊嶋郡に為奈都比古神社(箕面市)があり、その付近が本貫地である。本貫地を遠く離れた穴虫に葬られたのは、彼が藤原京と摂津猪名の往還に利用した穴虫越えによるのであろうか。発見地一帯は火葬墳地帯であり(伊達宗泰『大和考古学散歩』)、往還の途中にあるいはそうした光景を目撃したのかもしれない。ただし死後七カ月して葬られているから、遺骨のみを葬ったのであろう。

 采女氏塋域碑(うねめしえいいきひ)は太子町春日帷子(かたびら)山から妙見寺へ移されたが、現存しない。高さ五二・〇センチ(異説もある)、幅二一・〇センチ、厚さ石材ともに不明。銘文は六行にわけて書かれている(547)。釈文で示すと「飛鳥浄御原大朝廷(天武天皇代)、大弁官直大弐、采女竹良卿、請い造らんとする所の墓所、形浦山地四十代(しろ)。他人は上って木を毀ち傍地を犯し穢す莫らざる也。己丑年十二月廿五日」とある。采女氏の墓所であるから他人の立入りを禁ずるといった意味で、このために塋域(墓地)碑といわれる。

547 采女氏塋域碑 (好古小録金石書画乾より)

 采女竹良は『書紀』に竹羅・筑羅・竺羅とも記される。天武一〇年(六八一)七月、遣新羅大使となり、一三年二月には信濃に派遣されて都の地形を検討させられている。同一四年九月には他の九人とともに御衣袴を与えられ、朱鳥元年九月、天武死去に際し内命婦の事を誄(しのびごと)した。碑に記す大弁官は後の太政官の弁官の前身であり、直大弍は従四位上にあたる。四〇代は一段の五分の四の面積で、己丑年は持統三年(六八九)にあたる。

 律令の規定では「凡そ墓には皆碑を立てよ。具官姓名の墓と記せ」と、墓碑の設置を命じているが、実例は少ない。

 采女朝臣については『姓氏録』右京神別上に「石上朝臣同祖。神饒速日命六世孫大水口宿祢之後也」と、物部氏と同神から派生したとする。本来は宮廷に貢上された采女の管理を職掌としたのであろう。同族に『姓氏録』は采女臣を和泉国神別に記す。他に采女臣から朝臣を賜姓された家足・家麻呂は、摂津嶋下郡人である(『続紀』天平神護元年二月一〇日条)。采女朝臣の本貫地は確定できないが、石川郡ではなかったであろう。磯長谷がその墓地とされたのは、陵墓の密集によるものと考えられる。

 なお以上の他に石川年足の本貫地を石川郡と考えればその考察も必要であるが、石川氏は大氏族でたとえ石川郡に本貫を持ったとしても、在地との関係は切れているとみて省略した。ただし多数の炭とともに発見された点で、太安万侶墓と類似性があり、興味深い。