墓誌にみられる二・三の特徴

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王後の墓誌銘について注目されるのは「万代の霊基を安く保ち、永劫の宝地を牢固にせんと為る也」という文句である。これは将来に墓地が破られる危険にさらされることがあるかも知れないので、そのさい、これは王後らの墓であると明示することによって墓が守られるように願望したものである。墓域の占有と安泰を願望している例として、下道圀勝圀依母夫人骨蔵器に「二人の母夫人の骨蔵器なり。故知りて後の人明らかに移し破るべからず」といい、伊福吉部徳足比売骨蔵器に「三年庚戌冬十月火葬し、即ち此の處に殯す。故末代の君ら、應(まさ)に崩壊すべからず。上件前の如し。故(かれ)謹みて錍に録す」とあり、行基骨蔵器に「唯碎き残れる舎利あるのみ。然れども盡(ことごと)く軽き灰なり。故(かれ)、此の器中に蔵して以て頂礼の主と為(な)し、彼の山上を界して、以て多宝の塔に慕す」とある。太安万侶の墓誌(548)が木櫃の下側に、しかも文字面を下に向けて木炭郭の上に伏せてあったことから、安万侶の墓誌が冥界へのパスポートとして副葬されたという意見が出されたけれども、これまで知られている墓誌の銘に墓域の安泰を願望する文句が記されていることに注意すると、パスポート説は太安万侶の場合にとどめておかなければならないと考える。また太安万侶の墓誌が冥界へのパスポートであるとする説は、その冥界は固有思想における黄泉の国をさすのか、あるいは仏教や道教に説かれるあの世をさすのか、というようなことを明らかにする必要がある。なお今まで知られている墓誌の銘によって墓誌を副葬した遺族の考えかたを推察すると、やはり死去した肉親の死を悼む気持から墓誌を作ったと考えられ、たとえば威奈大村骨蔵器銘に「惟(こ)の卿(威奈大村)降誕して、余慶斯(ここ)に在り(中略)空しく泉門に対し、長(とこしえ)に風燭を悲しぶ」とみえ、美努岡万墓誌に「令聞尽き難く、余慶窮り無し。仍(よ)りて斯(こ)の文を作り、中墓に納め置く」といい、石川年足墓誌に「夜台荒寂として、松柏は煙を含む。嗚呼(ああ)哀(かな)しきかも」とあるのがその証拠となる。

548 太安万侶の墓誌

 つぎは死亡した肉親の功績を墓誌によって顕彰する意図が働いたことはいうまでもない。墓誌は墓の中に埋葬されるから、社会の人の目に見せるわけにいかないけれども、将来、墓が破られることがおきた場合に、墓誌をそなえている場合は後世の人によって手厚くあつかってもらえるが、墓誌のない墓ならば粗末にして破壊されてしまうと予想されたであろう。死者が生前に占めた官位や官職を記すのはそのためで、美努岡万墓誌に「春秋六十有七。其の人と為(な)り、心を小(せ)めて帝に事(つか)へ、孝を移して忠と為す。忠、帝の心を簡(えら)び、能く臣下に秀(ひい)づ。功を成して業を広くし、一代の高栄を照す。名を揚げて親を顕はし、千載の長跡を遺(のこ)す」と記すのは遺族が死者を顕彰したいと考えている気持で墓誌を作ったことを示している。また墓誌によっては死者が仕えた天皇の名をあげ、重く用いられたとか、声望が高かったと述べるものがあり、王後の墓誌では、敏達・推古・舒明天皇の名をあげ、舒明天皇が「照見して其(王後)の才の異なり、仕へて功勲有るを知り、勅して官位大仁を賜ひ、品第三と為す」といい、威奈大村の墓誌では「(慶雲)四年二月、爵を正五位下に進む。卿、これに臨むに徳沢を以ちてし、これを扇ぐに仁風を以ちてす。化洽(あま)ねくして刑清く、令行はれて禁止まる。冀(こひねが)ふ所は茲の景祐を享(う)け、賜はるに長寿を以ちてせむことを。豈(あに)謂はむや、一朝遽(にはか)に千古を成さむとは。慶雲四年歳は丁未に在る四月廿四日疾に寝し、越城に終る。時に年四十六」とあり、このように文章が長くとも、事績を詳記することはないのが普通である。太安万侶の墓誌に『古事記』を編集したことが記されていないからという理由で『古事記』偽書説に有利だとの説がみられたが、墓誌には官位・官職などは記されるが、事績などを詳記しないのが普通である。