前項までに論じ残した人びとについて、考えてゆきたい。まず錦部毘登石次らであるが、『続紀』天平神護元年(七六五)一二月一九日条にはつぎのようにある。
河内国錦部郡の人、従八位上錦部毘登石次、正八位下錦部毘登大嶋、大初位下錦部毘登眞公、錦部毘登高麻呂等廿六人に姓錦部連を賜う。
錦部のつく人名には、錦部・錦部村主・錦部毘登・錦部連・錦部首がある。同じ読みの錦織には、錦織曰佐・錦織行・錦織君・錦織連・錦織・錦織部がある。すべて百済からの外来系譜の人であるが、その定着地はいろいろである。錦部を郡名とするのは本郡のみであるが、郷名とするのは山城国愛宕郡・河内国若江郡・近江国滋賀郡・近江国浅井郡がある。さらに美作国久米郡錦織郷や信濃国錦織駅などの地名も知られる。したがって人名だけではその本貫地は知りがたく、本項のように河内国錦部郡と明示される以外は、取扱いに慎重を要する。
錦部毘登の毘登というカバネは、すでにみたように(「史料にみえる石川郡・錦部郡」)天平勝宝九年(七五七年)に首・史のカバネを廃止し、代わりに与えられたもので、以前は錦部首だったのである。
石次、大嶋、眞公、高麻呂らはいづれも位階を持っており、下級官人の家であったことがわかる。これはカバネ姓の原則とも一致し、二六名ものカバネ姓を持つ錦部郡の有力者の一群と考えられる。
つぎに山代忌寸大山らであるが、次掲の勘籍(古代二九・『大日本古文書』二五―六四)は興味をひく点が多く、研究者の注目するところである。
山代伊美吉大村年卅五
天平十八年籍河内国石川郡紺口郷戸主山代伊美吉大山男山代伊美吉大村年卅二注
天平十二年籍紺口郷戸主大初位上山代伊美吉大山戸口山代伊美吉大村年廿六注
天平五年籍 余戸郷戸主少初位下山代伊美吉東人戸口山代直大村年十九注
神亀四年籍 波太郷戸主山代直大山戸口山代直大村年十三注
養老五年籍 山代郷戸主従六位上山代伊美吉真作戸口山代伊美吉大山年廿四注
天平勝宝二年三月廿三日
まず事実関係からみていこう。大村は天平勝宝二年(七五〇)に三五歳であるから、霊亀二年(七一六)の出生である。母は不明で、父は大山である。大山は養老五年(七二一)に二四歳だから、文武二年(六九八)の出生となり、大村は大山の一七歳の息子である。令の規定では一七以上二〇歳以下が中男、二一以上六〇歳以下が正丁で、蔭位の制(高位者の子や孫に高位を与える制度)も二一歳で適用されるから、大山はまだ一人前とみなされない時期に、大村の父となった。このためもあってか、母方の籍に付されたらしく、養老五年籍は父の大山のものを記している。大山の戸主は墓誌で有名な山代忌寸真作である。真作と大山を父子でないとする説もあるが、妻の死後真作がかなり弱っていたとすれば、父の生存中でも国司と交渉し戸主となりうるのではなかろうか。こうした無理が背景にあって、大山は山代直にカバネを下げられたとみるのである。その属郷も波多郷とせざるをえなかったといえる。そののち、天平五年籍では余戸郷戸主山代忌寸東人の戸口として大村が記された理由は、真作の死去によって波多郷の大山の戸を解体したためではなかろうか。父とともに山代郷の戸に付されなかったのは、一九歳になった大村の出仕が予定されていたので、少初位下の位階を持つ東人の戸に属した方が有利だったためかもしれない。しかしなんらかの事情(たとえば大村の病気とか)で出仕できず、天平一二年籍では紺口郷の大初位下の位を持った父の大山の戸に付せられた。その後、天平一八年までの間に父の大山は位を失い、天平二〇年までの間に忌寸から直へ下げられた。『続紀』の天平二〇年七月一〇日条に「正八位下山代直大山等三人に並びに忌寸の姓(かばね)を賜う」とあり、もとに復した。以上、史料古代二九の記載を疑うべきでないとする提言(野村忠男「天平勝宝二年山代伊美吉大村の勘籍について」『日本文学史研究』二〇)に基づいて憶測を重ねた。
山代は山背・山城とも記され、山代・山代忌寸・山代部・山代直・山背連・山背甲作・山背忌寸族などが知られている。大宝二年(七五〇)の美濃国各務郡戸籍や、同年同国味蜂間郡春部里戸籍に、山代や山代部を名のる者がいる。また山背国造には山代忌寸品遅が任ぜられている(『続紀』慶雲三年一〇月一二日条)。山代の分布が広い範囲にわたることがわかる。
『姓氏録』には、山背忌寸を山城国神別に、山代直を未定雑姓山城国に、山代忌寸を左京諸蕃上にのせるが、河内国に関するものはない。山代を名のる氏族には、日本出自のものと外来系譜のものがあることがわかるが、河内の山代は出自不明である。ただ石川郡人漢人広橋らに山背忌寸が賜姓されている(既述)ことからみれば、外来系譜の左京諸蕃上「出自魯国白龍王」の系列の可能性は強い。