調日佐足麻呂など

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調日佐足麻呂についての史料は、史料編にないので年代順に史料を整理してつぎに示しておこう。

 ①天平勝宝二年八月(『大日本古文書』二五―一三二)

  調行足万呂日卅夕廿九

 ②天平宝字四年(『大日本古文書』二五―三〇三)

  小塔料木事

   合九十物

    七十六物先進上畢但不足者道間留在、知桴領物部眞玉等申

    十八物是度漕下於葛野井津

     塔心柱二根一長三丈六尺一長三丈八尺 幡桙庄柱二根長二丈三尺

     戸板十四板長一丈広三尺

      右件木之、可逆曳状、足万呂正身、以月十六日参上申送、今付在嶋申送以解

                          領調足麻呂

 ③天平宝字五年ヵ(『大日本古文書』一五―一三三)

  従八位上調日佐足麻呂年五十一河内国石川郡人 上日弐伯七拾壱

 ④天平宝字六年ヵ(『大日本古文書』一六―二七六)

  謹啓

  納日下部子虫服物櫃匙、在東塔所、即御封、又昨日自丹波山仕丁丹生嶋君参申、子虫服[給(挿入)]。即水主問、自何日参上、又仰給米事何。答申、今月十六日発参上、又材木依雨太落、皆流散、依此収[而(挿入)] 米不進上状申上云。又問、雨者自何日落。答申、自十七日々中。又問、雨者自十七日落、嶋君者自十六日参上、何知雨大落。答申、雨可大落時者、預[川(挿入)]水際益、以此雨大可落云進上申。又調足万呂連署上文注十七日、此亦連署日[与(挿入)]嶋君発参上日違。凡者事参差、多有詐事量知。足万呂者、不行山作所殿、在己之家進上文、此可勘問給。又日下部子虫身在官物多申、此不当、何故貧窮独在子虫、[何故(挿入)]官物不経司輙借給。凡[聞(挿入)]子虫、身多在他泊、定知此嘱請事、[  

 以上の史料からいえることは ①天平勝宝二年(七五〇)八月には、調日佐足麻呂は東大寺写経所に昼三〇日勤め、夜勤を二九日勤めた。仕事の内容は不明であるが、彼の一人前に名を記された人に位子の肩書きがある。位子は通常、内六位から八位の嫡子であるから、彼の父も位階を持つ下級官人であったかもしれない。②天平宝字四年(七六〇)頃にはおそらく東大寺に関係したものであろう小塔の芯柱の運送にあたっている。葛野井津は、そこからは「逆曳」するとあるから、現在の桂川(当時葛野川)と木津川の合流点付近であろう。したがって材木は天平宝字六年の史料にあるように、丹波山作所から筏(いかだ)で保津川を下り、木津川を遡上して東大寺に運ばれたのである。調足万呂はその桴領つまり筏の責任者であった。③天平宝字五年頃にはそうした活動によって従八位上の位をえ、二七一日間東大寺に勤務している。

 ④天平宝字六年と思われる史料は、わかりにくいのでまず文意を追ってみよう。関係する人名は、東大寺当局の下級役人の水主、丹波山作所の使用人で東大寺に使者に出された丹生嶋君、おそらく丹波山作所の役人の日下部子虫、丹波山作所から東大寺への材木運搬の責任者の一人の調足麻呂の四人である。「啓」は私的な手紙で、水主(氏は他田で、名のみが示されている)が上級者に送ったものである。「日下部子虫が持っていた服などを入れた櫃の鍵は納めました。東塔所に置き封をしました。又昨日丹波山作所の仕丁の丹生嶋君が来て、子虫の服を要求しました。そこで私(水主)は、何日に出発してきたのか、また先に命じた給米の事はどうしたのだと問いました。答えて丹生嶋君が云うには、今月の一六日に出発しましたし、激しい雨で材木が流れてしまったので、それを回収した後に米については、進上できない旨を報告書に述べるつもりだ、といいます。さらに雨は何日から降ったのだと問うと、一七日の日中からだと答えました。そこでまた嶋君は一六日に出発したのにどうして(一七日の)大雨のことを知っているのだと問いました。すると雨が大降りになると川の水が溢れるのできっと大雨だと答えました。以上報告します。また、調足万呂が連署した文に一七日の日付があり、嶋君の出発日とくい違っています。すべてこのようにいいかげんで、うそが多い事が推測できます。足万呂は山作所へ行かないで、家でこの文書を差出したに違いありません。これはきびしく糾問すべきだと思います。また、日下部子虫は官物を数多く自分のものとしているということです。これは不当ですし、どうして子虫だけが貧窮だという訳でもないのに、東大寺当局を通さず役所のものをたやすく借りることができるのでしょうか。だいたい子虫は役所に泊らず他に泊ることが多いと聞きますし、きっと無理に頼みこんでいるにちがいありません」

 この手紙の相手は不明であるが、もしその内容が事実だとすれば、足万呂はこの後厳しく尋問されたことであろう。

 調のつく姓には、調使・調首・調日佐・調連・調君・調忌寸・調などがある。『新撰姓氏録』には調日佐を河内国諸蕃に「水海連同祖」とし水海連を「出自百済国人努理使主也」と記し、調連を左京諸蕃下「水海連同祖、百済国努理使主之後也。誉田天皇御世、帰化。孫阿久太男弥和、次賀夜、次麻利弥和。弘計天皇御世、蚕織献絁絹之様。仍賜調首姓」とある。調忌寸は『新撰姓氏録逸文』にやはり百済系の阿智使主の系譜とある。調氏は百済系の外来系譜氏族であろう。日佐(おさ)は訳語(おさ)で通訳を意味し、この任にあたった調氏の一族にカバネとして、固定されたものといえよう。

 以上で石川郡・錦部郡について検出できる奈良時代の人名についての説明を終わるが、錦部郡には高向・塔本、石川郡には佐備の地名があり、これにちなむ氏族の存在は確実であったと思われる。高向は高向村主・高向史・高向調使、塔本は塔本(麻田連)、佐備は佐味村主・佐味君・佐味朝臣・佐比部・佐比などが推測されるが、確認できない。

 また河辺朝臣乙麻呂のことはすでに述べた(「無カバネ姓の人びと」)が、河辺朝臣と音の通じる川辺朝臣についてふれておこう。河辺朝臣と川辺朝臣が混用されるのは、『続紀』に川辺朝臣東人(神護景雲元年正月一八日条など)とあり、『万葉集』に河辺朝臣東人(六―九七八など)とあることにより確かである。川辺朝臣のうちで河内国人と明記された例は、『続紀』宝亀元年八月二九日条に「初め天平十二年左馬寮の馬部の大豆鯛麻呂、河内国人川辺朝臣宅麻呂が男の杖・枚代・勝麻呂らを誣告し、飼馬(うまかい)に編附せしむ。宅麻呂、累年披訴せり。是に至って始めて雪(そそ)ぎ、因て飼馬の帳を除く」とある宅麻呂・杖・枚代・勝麻呂である。彼らは誣告によって雑戸(隷属身分)に付せられていたのであるが、何らかの意味で馬に関係していたため飼馬に編戸されたのであろう。河辺と同様に川辺を「かわのべ」とみれば、千早赤阪村川野辺の近くに河南町馬谷がある。あるいはこの近辺が宅麻呂・杖代・勝麻呂の本貫地とも臆測できるが、もとより史料には郡名の記載がないから、断定はできない。川辺朝臣宅麻呂らは、あるいは石川郡に関係する人名かもしれないという可能性を指摘するにとどめたい。