桓武天皇の即位によって、時代は新しい段階へはいり、この新時代は一般的には、平安時代とよばれ、八世紀末から一二世紀末頃までの約四〇〇年間をさすが、一〇世紀半の承平・天慶の乱で二分して考えることにしよう。前半の時期には奈良時代と連続して、まだ天皇中心の律令体制がまがりなりにも維持されていた時期である。後半になると律令体制はほとんどくずれて、藤原氏や上皇(院)に権力が移り、一方では新階級として武士が台頭してくる。
さらに小さく時期を区切ると、桓武・平城・嵯峨・淳和・仁明・文徳期の六代八〇年足らずが第一期で、清和・陽成・光孝・宇多・醍醐・朱雀朝の六代八〇年が第二期である。第三期は村上天皇から後三条天皇までの一〇代一三〇余年であり、第四期は白河天皇から後白河上皇の没年までの一二〇年をあてうる。第一期は律令体制の動揺に対処しようとする補強期であり、第二期は律令制が傾斜し、貴族政治の始まる時期で、藤原氏は天皇の外戚として摂政・関白となり、権力を確立した。第三期は摂関政治の全盛期で、律令体制は形の上で残っているにすぎず、各地では武装した実力者・武士が力を持ち始めた。第四期には上皇が権力を握り、その裏では武士たちが着々と権力奪取の力を養っていたのである(藤木邦彦『日本全史』三、古代Ⅱ)。
こうした時代の変転とともに、歴史も複雑な様相を示しはじめる。朝廷が編集した正史は、記載内容が文武天皇元年から桓武の延暦一〇年までの『続日本紀』以降、『日本後紀』(桓武・平城・嵯峨・淳和朝を収録)『続日本後紀』(仁明朝)・『日本文徳天皇実録』(文徳朝)・『日本三代実録』(清和・陽成・光孝朝)と編纂されたが、以後は計画されたのみで完成しなかった。律令を修正した法令としての格、施行細則としての式の数も増加し、『弘仁格式』『貞観格式』『延喜格式』などとして集大成された。格や式の内容は『類聚三代格』、『延喜式』などによって知りうるが、地方の実情をうかがうことは容易でない。
六国史以降の政治や社会に関する史料としては、各種の日記・記録などを年次ごとに編集した『大日本史料』、社会・経済史については『平安遺文』などもあるが、ここからも一地方の歴史を復原することは非常に困難である。律令制下ではいわば中央と地方が直結していたのであるが、その動揺とともに中央と地方との絆が切れた形となり、地方の歴史は非常に知りがたくなるといえよう。