竹内理三編の『平安遺文』には平安期の社会・経済に関する史料が豊富であるが、その一八号文書に一通の土地買券が収められている。京都の仁和寺に伝えられてきた文書である。
紀伊郡司解 申立売買券文事
合家壱区地六段 四至東限秦浄山家并田 南限土左守家并西限田并深草□原 北限官畠并田
在九条深草東外[ ](里十二ヵ)坪
右得管深草郷長木曰佐新足辞状偁、河内国志紀郡井於郷戸主正六位上城原連三仲申云、己家以銭壱拾六貫六伯文宛価直、常地売与同国石川郡大国郷戸主従六位上錦部連豊人戸従七位下錦部連姉既訖、望請、依式欲立券者。郡依解状、勘察有実、仍勒売買両人署名、立券如件、以解。
売人正六位上城原連三仲
買人従七位下錦部連
刀祢正七位下末使主山依
従八位上秦忌寸白麻呂
従八位上内蔵秦忌寸広足
外大初位下末使主広成
延暦十九年六月廿一日擬主帳大初位下出雲臣「乙継」
大領従七位下秦忌寸 擬主政無位秦忌寸「永年」
小(少)領外正七位下秦忌寸「豊道」
この文書は河内国志紀郡井於郷の城原三仲から、家地六段を銭一六貫六〇〇文で、石川郡大国郷の錦部姉が買い取ったことを示している。延暦一九年(八〇〇)のことであるから、平安遷都後六年のことであった。姉は従七位下という位階を持つから、官人の一人である。買取った地は九条深草東外里で、平安京の京外ではあるが、東南隅に接する場所である。四至の南限にみえるように土左守の家もあり、そう辺僻な場所ではない。官人たちは京内に土地を与えられたが、おそらくそれは京を本貫とする者に限られたであろう。この当時の土左守は従五位下紀朝臣奥手麻呂である(『日本後紀』延暦一五年二月一五日条)。奥手麻呂はこれ以外には史料がなく、経歴は不明であるが、紀朝臣の主流ではない。京内に土地を与えられなかった官人たちは、錦部姉のように家地を買取って移転する以外に方法がなかったと思われる。地方から京への戸籍の移動は、『日本後紀』延暦一五年(七九六)七月一九日条が早い例で、以降仁和年間まで約一世紀足らずの間に四五〇例ほどが知られる(村井康彦『古京年代記』付表Ⅱ)。地方の有力者で官途叙位を目的とする場合が多く、京貫の前後にはカバネや姓を改める者も多かった。地方豪族が在地性を捨てさって、中央官人として栄達をとげようとする動きとみられる。錦部郡の錦部連の例もこの典型であるが後に触れることとして、もう少し錦部姉についてみておきたい。
前引の一八号文書から一七年後の弘仁八年(八一七)、『平安遺文』の四三号文書にはつぎのような土地買券が収められている。一八号文書と同じ『仁和寺文書』である。
紀伊郡司解 申立売買家券文事
合家壱区 地参段 在物板屋参宇一宇三間板敷在庇二面戸二具一宇七間在一具一宇三間无戸
屋柱十三根
四至限東南公田 限西三善宿祢姉家限北秦忌寸縄継家
在九条深草里卅三 卅四坪
右得管深草郷長木勝宇治麻呂解状偁[ ]下秦忌寸三裳麻呂戸同姓阿古刀自辞状云、己姓女秦忌寸諸刀自家、以銭弐拾貫文宛価直、[ ]右京四条二坊戸主従八位上三善宿祢弟正戸従七位上同姓姉既畢者、望請、依式欲立券者、郡[ ]勘、所陳知実、仍勒売買両署名、立券文如件、以解
売人 秦忌寸[在食指(挿入)][
相売 大初位下秦忌寸三裳万呂
蔭孫秦忌寸縄継
買人従七位下三善宿祢
刀祢正八位下木勝浄麻呂
(中略)
弘仁八年八月十一日 主帳少初位下秦忌寸
大領従七位下出雲臣乙継(後略)
この文書は三善宿祢姉が自宅の東に接する家地三段と、板造りの家三軒を買ったという内容である。三善宿祢は『姓氏録』右京諸蕃下に「出自百済国速古大王也」とあり、さらに同書の和泉国諸蕃の錦部連、河内国諸蕃の錦部連には「三善宿祢同祖」とある。また『類聚符宣抄』第七の貞元二年(九七七)五月一〇日の官符には、錦宿祢時佐の男一三人と女五人に三善朝臣の姓を給したことがみえる。錦も錦部も読みは同じ「にしごり」である。三善と錦部は深い関係のある名といえる。
三善宿祢は六国史では、『日本後紀』の大同三年一一月一九日条が初見で、これ以前にはみえない。その記事は「従五位上三善宿祢姉継、无位伊勢朝臣継子正五位下」というもので、この日に従五位上から正五位下に昇進したのである。しかも「姉継」の「継」は、原本にはなくて「三善宿祢姉」とだけ記されていたのを、江戸時代に塙保己一が『類聚国史』によって「継」を加えたのである。原本によってこの訂正を不必要とすれば、時期からみても前引の四三号文書と同一人と考えうる。さらに三善宿祢と錦部の関係の深さをあわせ考えれば、一八号文書の錦部連姉と同一人とみられるのではなかろうか。
『日本後紀』は部分的にしか残存せず、延暦一九年から二二年までを欠き、さらに大同元年一〇月から大同三年三月までを欠いているから、上述の推測は実証しがたい。三人を同一人とみて臆測を加えれば、かなりの程度に錦部姉の歴史を知ることができる。姉は延暦一九年に平安京郊外の地を買い、しばらくして本籍を平安京右京四条二坊に移すことを許された。女官として宮中に仕え、延暦二五年の桓武死去後即位した平城天皇の寵姫藤原薬子の一派になったらしい。おそらく薬子の力によって、錦部連から三善宿祢へ名をかえ、位も従五位上まで昇った。大同三年一一月には、薬子の昇位とともに正五位下となった。しかし大同四年四月平城が上皇となり嵯峨に位を譲り、一二月平城京へ移住すると薬子の力はおとろえる。姉も薬子と同じく平城京へ移ったかもしれないが、薬子と上皇が権力奪取を目指しはじめると、警戒心を強めた。弘仁元年九月、薬子と上皇が東国で挙兵しようと出発した時には、「陪従人ら周章して図を失なう」といわれ、脱れ去る者が多かった。姉もおそらくはこれ以前かこの時、薬子を見捨てたであろう。薬子の計画は失敗し、乱は平定された。嵯峨天皇はこの乱に対し寛大な処置でのぞんだ。姉は位階を下げられた程度で済んだが、女官としての昇進はあきらめざるをえなかったであろう。弘仁元年一二月には一族の三善宿祢弟姉が、無位から一挙に従五位下を与えられた。姉にとってかわったのではなかろうか。姉は弘仁八年には自宅の東に新たに家地を買い、ここに移ったと考えられる。(別に延暦五年に無位から従五位下となった錦部姉継があり、大同の三善姉継はこの人物かもしれない)
以上かなり強引な推測を加え、石川郡よりの移住者錦部連姉の場合をみてきたが、つぎに錦部郡の錦部連安宗と三宗麻呂の場合をみよう。『三代実録』貞観五年(八六三)九月五日条には、つぎのようにみえる。「河内国錦部郡人木工権少属従七位上錦部連安宗、式部位子正七位上錦部連三宗麻呂等、本居を改めて左京職に貫附す」また同書貞観九年四月二五日条には、つぎのような記事がある。「主税少允従六位上錦部連三宗麻呂、木工少允正六位上錦部連安宗に、姓惟良宿祢を賜う。其の先は百済国人也」と。錦部連安宗らは錦部郡から左京へ本貫を移し、カバネも惟良宿祢とかえている。宿祢は本来は神別(天皇家と神代に分れたという伝承を持つ)氏族に与えられるものであったが、ここではもはやそうした意味はない。惟良というのも日本風の命名であって、カバネはたんなる記号にすぎなくなっている。こうした外来系氏族の日本的な姓への改名は、この当時の風潮でもあった。
また石川郡に関係が深いといわれる石川朝臣も、史料(古代七一)にみえるように元慶元年(八七七)一二月、姓を宗岳朝臣に改めている。この改姓をうけた宗岳朝臣木村は、元慶三年五月一五日には、左京一二烟・右京四烟の同姓の氏人の絶戸を申請している。絶戸を申請すれば三カ年は半地子でその口分田を耕作できる特権があり、政府も授位や給物によってその申告を勧めていたことによるのであろう。さらに木村は奈良の建興寺(豊浦寺・向原寺・桜井寺と同じ)を、蘇我稲目の建造との理由でその検領を請求したが、却下されている。平安朝の石川氏はあまりふるわず、こうした蘇我氏の伝統にすがる途を選ばざるをえなかったのかもしれない。