奈良時代における仏教は、何よりも仏法の力で国を守るという国家仏教が主流であった。もちろん父母や故人の追善供養や、現世利益(この世での利益)を求める個人的な動機による信仰もあったが、国家仏教におおいかくされていたといえる。したがって律令体制下では仏法界と俗界をつなぐ僧尼に対する統制は強力で、政府の許可がなければ僧尼となることはできなかった。また僧尼となるためには厳しい修業が必要で、誰でもがなれるわけではなかった。そこで仏教に心ひかれる人のなかには、勝手に僧尼の姿となる者があらわれ、僧尼になれば税が免除されるのでそのためにも僧尼の姿をした。これらの人びとは自度もしくは私度僧とよばれ、僧尼令が固く禁じたところであり、ときどき政府によって禁圧された。『日本霊異記』上巻二七(古代六七)にみえる石川の沙弥もこの例である。
『日本霊異記』は薬師寺の景戒が平安初期に編集したもので、そこに石川の沙弥が詐欺の罪によって火難の報いを受ける話が記される。
石川の沙弥は、勝手に僧の姿をしている人であったから、僧名を持っていなかったし、また俗姓を何と称したかについてもつまびらかでなかった。彼が石川の沙弥と呼ばれたのは、彼の妻が河内国石川郡の人であったからである。彼は風采や服装を沙弥に似せているけれども、心の底では物を盗み取ることに懸命であった。あるいは彼は塔を造る費用を勧進しているのだといって人をだまし、財物の寄進を依頼して手中に収めて、家に退いてはその妻といろいろな品物(僧が食べてはいけない食物)を買って食べた。あるいはまた彼は摂津国(大阪府)嶋下(しましも)郡の舂米寺(つきよねでら)に住み、塔の柱をたたき割ってこれを焼き、このような悪業によって仏法を冒涜した。悪業をかされて仏法をけがすことにおいて、誰も彼の右に出る者はなかった。
ついに彼は嶋下郡の味木里に至ったとき急に病にとりつかれ、声をあげてさけび、「熱い、熱い」とわめいた。彼は地面から跳びあがること一ないし二尺ほどであった。世人が集まってきて彼をながめ、彼に問うていうには、「なぜこのように叫ぶのか」と。彼は答えて「地獄の火が襲いきて私の身を焼き、私は苦をこのように受けているのである。ことさらに問わないでほしい(地獄の火を浴びて苦しめられていることがわからないのか)」といい、たちまちその日に命を失った。
石川の沙弥の死を見ると痛ましい。人が悪い罪を犯すと、それに対する報いはきっと見られることである。どうして行為をつつしまないでよかろうか。『涅槃経』に「もしじっさいに人が善行をおこなうと、その人の名は天人(天上界に住む人びと)の間に知れわたり、その逆に、人が悪業を犯すと、その名は地獄に知れわたる。それはなぜかというと、人間の行為に対して、かならずその報いがともなうものであるからである」と説かれているが、その実例は石川の沙弥の場合にみられるわけである。
この『日本霊異記』に記される説話は、『今昔物語集』(巻二〇の三八)に「石川沙弥、悪業を造って現報を得る語」としても記される(古代七九)。それらをくらべると話の内容にほとんどちがいはなく、『今昔』の編者が『霊異記』を見て書いたことはまちがいない。