しかし私度僧のすべてが、こんなひどい状況であったのではない。伊勢国の例になるが、天応元年(七八一)一二月私度僧の法教は伊勢・美濃・尾張・志摩などの知識を集め、立法堂・僧房・大衆湯屋を建て、多度神宮寺の発展につとめた(『平安遺文』二〇号)。道鏡を頂点として仏教界が政界に癒着している時にも、仏法はこのような人びとによって守られていたのである。そして既成の仏教界にも当然のことながら、すぐれた高僧も多かった。その一人が錦部郡出身の僧の善議である。
善議は『日本後紀』弘仁三年(八一二)八月二三日条に、その卒伝がみえる。
伝灯大法師善議、卒(しゅつ)す。本姓は恵賀連、河内国錦部郡の人なり。「法師入唐学問道慈大徳之入室也」。少(わか)くして塵事を捐(す)て、早くして道遊を結ぶ。天資は秀異にして、気稟は冲和なり。能(よ)く梵甲を持し、志は伝燈を願えり。是を以て三論の家は法将を号することを許す。中道の理、国家に流布するは、則ち伊人(このひと)の力なり。才位に愜(こころよ)からず、桃李は蹊をなし、千歳の名は是れ不朽と謂(い)う。道は極まり休むが如く忽(たちま)ち大暮に帰せり。人、云(ここ)に亡びたるは、衆生の不幸なり。時に年八十四なり。(「 」は原文のまま)
善議についてはこの史料以外にないが、同じ読みの善義は天平勝宝五年(七五三)四月七日の「大安寺三綱牒」にみえる(『大日本古文書』三―六二五)。善義はそれには『仁王経』講師となんらかの関係のある僧として「大安寺善義師」と記されている。善議は死去年からみて天平元年(七二九)の生まれであるから、勝宝五年には二五歳で「大安寺善義師」というには若過ぎるが、別人であるとも結論しがたい。
557 「大安寺三綱牒」(大安寺善義とある『大日本古文書』3-625)
○大安寺三綱牒 正倉院文書
(大橋本一)
大安寺三綱牒上 奉請仁王経并嚢等事
合十八部卅六巻 経嚢十四口之中十一口大安寺講師三口他寺講師
蔵義師 賢貞師 敬明師 玄照師
(○以下十四人略)
他寺講師
輪達師第四頭大安寺琳鏡師 乗教師第十一頭大安寺持戒師
玄基師第九頭大安寺善義師
以上三人講師経嚢返上
右、件講師等経嚢、随所在返上如前、以牒上、
天平勝宝五年四月七日小寺主僧 法融
上座僧 玄景 大都維那僧 善治
寺主法師 乗印 少都維那僧 常教
善議の卒伝で問題となる点はまず、原文のまま掲げた部分である。「法師は入唐学問し、道慈大徳の入室なり」と読めば、善議は唐に留学したことになる。「法師は、入唐学問せし道慈大徳の入室なり」と読めば、唐留学はなかったことになる。当時の諸史料からしても、後者の方が妥当である。善議の師の道慈は『日本書紀』の編者の一人であり、『続日本紀』に卒伝のある六人の高僧の一人で、大官大寺(大安寺)の平城京移建を指揮し、国分寺創建の建策者と考えられる有名な僧である(井上薫『日本古代の政治と宗教』)。
つぎに卒伝中で問題となるのは「梵甲」であるが、仏教用語では「梵行(ぼんぎょう)」はあっても「梵甲」はない。「梵行」を「ぼんこう」と読み、「梵甲」の字をあてたのであろうか。「梵行」は清らかな修行、戒律をたもち修行することの意味である。
また善議の弟子としては、安澄が知られている(田中卓「安澄の卒伝」『続日本紀研究』二―四)。安澄は弘仁五年三月死去したが、『日本後紀』はこの部分は現存せず、『日本紀略』は安澄の師の善議の名を省略している。奈良時代から平安初期にかけて、三論宗の師弟関係のうちで道慈―善議―安澄という系譜が復原される。
また善議と同じ頃に石川郡出身の高僧に光意があった。『元亨釈書』第二巻につぎのようにみえる。
釈光意、姓は河内氏、内州の石川郡人。容姿は閑雅にして、音韻は清亮なり。講席に臨むごとに、道俗は聴(みみ)を傾けたり。大同年中、最勝会(さいしょうえ)の座主(ざす)となり、挙問の有れば、弁ずることは流れるごとし。暮年に斎食して緩がず。弘仁五年三月、本郷に終る。
光意の史料はこれ以上にないから、大極殿で行なわれる最勝会(金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)を講説し、鎮護国家を祈る最重要の法要)の座主をつとめた高僧で、石川郡出身の俗姓河内氏であったこと以外詳しくはわからない。