これらの高僧を数多くうみ出しながらも、全体として平城京(南都)の仏教界は、あまりに政治と密着しすぎたのである。律令体制再建を目指す桓武天皇は、南都諸寺院の長岡・平安京への移転を認めなかった。仏教本来の姿を求めて、新たに最澄と空海が登用された。最澄と空海は延暦二三年(八〇四)ともに入唐した。最澄は天台山に学び、翌年八月に帰国すると比叡山寺に天台法華宗を開いた。
一方空海は長安の青竜(しょうりょう)寺など各地に学び、大同元年(八〇六)八月に帰国した。帰国後は和泉国の槇尾山に数年留まり、やがて京都の高尾山寺に移り、弘仁七年(八一六)高野山に道場を設け、弘仁一四年京都の東寺を与えられた。空海は南都仏教界と対立することなく、むしろ旧大寺に真言密教を導入させた。こうした関係から、前代より存続する寺であっても、真言宗に属した寺は少なくない。富田林市に位置する龍泉寺などはその代表であろう。『元亨釈書』第一巻の空海の伝には、「内州に一寺有り。その地もと龍池、龍の他処に移り、池また涸(かれ)る。寺衆は水の無きに苦しむ。海(空海)、一所を点じて加持す。清泉忽ちに沸(わ)く。因て龍泉寺と号す」とある。『元亨釈書』は鎌倉期の作で、事実を示すものではないが、鎌倉期には龍泉寺が真言宗の寺院であったことはうかがえる。
またやはり鎌倉期の『日本高僧伝要文抄』の第一の弘法大師伝には「河内国高貴寺、法の如く大般若(経)を書写す。またかの盟(ちか)いの葉、今、椿木に寄生す」とある。高野山への参詣が盛んになるにつれて、真言宗の寺院は増加していったであろう。
これらの寺院のなかで比較的創建の事情のわかるのは、河内長野の観心寺である。『観心寺資財帳』(古代六九)によれば、承和三年(八三六=空海死去の翌年)三月一三日に太政官符をえて創建された。それまでに創建者の真紹が一〇余年居住したというから、『観心寺縁起帳写』(古代六八)にみえる空海との関係も、誇張を除けば信用できよう。
このように最澄や空海の出現は、既成の寺院に天台・真言両宗への系列化をもたらした。南都の六宗も次第にその方式を学び、本山―末寺制度ともいうべきものができあがっていった。こうした寺院の系列化以外に両宗は、一切衆生成仏や即身成仏という理論を内に秘めていたから、教団の上層部が貴族社会と結びつき堕落しはじめると、教団から離れた聖(ひじり)や沙弥を生み出していった。
聖や沙弥は系列からいえば、前代の私度僧につながるが、律令体制の崩壊とともに私度・官度の区別は意味を持たなくなっていた。天台宗にも真言宗にも聖たちが付属する。天台宗系ではその早い例として「市の聖」といわれた空也が有名で、一〇世紀前半には平安京の市中で念仏による救済を開始している。この念仏の方法は次第に真言宗にも広まり、天台・真言両宗の聖ともに念仏を行なった。
高野山はやがて正暦五年(九九四)潰滅的な大火をこうむり、寺領荘園も紀伊国守などに侵略される暗黒の時代をむかえる。天野検校とよばれ天野山金剛寺にいた雅真が、その再興に努力したが、彼も長保元年(九九九)には死去した。この再興にあたり諸国を勧進したのも聖たちであった(五来重『高野聖』)。