錦織新別所の覚明房

822 ~ 825

時代は鎌倉時代に下るが『三輪上人行状』に覚明房が河内錦織の新別所で念仏を専修したと記され、錦織は富田林市の地と考えられる。別所は寺の本坊から離れた別の区域をさす語で、延暦寺・金剛峯寺・四天王寺などにみられ、〝聖〟(ひじり)が念仏生活を営んでいた。覚明房は〝聖〟のタイプに属する浄土願生者と考えられる。

 『梁塵秘抄』に「聖の住所はどこどこぞ、箕面よ勝尾よ、播磨なる書写の山、出雲の鰐渕や日の御崎、南は熊野の那智とかや」(二九七番)とかあるいは「聖の住所はどこどこぞ、大峰・葛城・石の槌、箕面よ勝尾よ、播磨の書写の山、南は熊野の那智新宮」(二九八番)と歌われ、箕面は箕面の聖と呼ばれた千観がこもった場所であり、書写山は性空聖が修行した山で、そこに円教寺が建てられるにいたった。『梁塵秘抄』にあげられた聖の住所は別所と呼ばれていないが、本質は同じで、退廃した旧寺院や教団を脱出した僧が新たな修行に入った場所である。聖が住んだ場所で別所と呼ばれたのは、延暦寺・金剛峯寺・四天王寺のような大寺院の本坊から少し離れている場合をいったと考えられる。しかし聖の住所は『梁塵秘抄』にみえる地や延暦寺・金剛峯寺・四天王寺の別所などに限らないわけで、錦織の新別所も覚明房と呼ばれた聖の住所であったことに変わりはない。

559 〝聖〟の別所のひとつの錦織付近(富田林市)

 覚明房は『三輪上人行状』に「彼の灌頂を謗(そし)り、一向に専修念仏を成すこと、三箇年の間なり。物に狂ひ、狂死し畢りぬ。其の後、同宿夢みらく、誘法の罪に依りて狂死すと雖も真言の結縁は空しからず、善所に生るべしと云々」と記される。同宿は覚明房と同じ建物の中でともに修行した者をさす。灌頂は受戒または修道昇進のときなどに行なう儀式(香水を人の頭にそそぐ)で、真言宗では秘密の法を伝授するさい行なうものを伝法灌頂と呼び、たんに結縁(仏教と関係を結ぶ)のため行なうものを結縁灌頂と呼んでいる。

 覚明房が、彼の灌頂を誹謗した、と『三輪上人行状』に記される彼は、隠岐から金剛峯寺に来た聖明房をさすと考えられる。灌頂を誹謗し、一向に専修念仏を行なったというのは、真言宗の教えをすてて念仏信仰に転じたことを意味する。このようにみてくると、錦織新別所の新は、金剛峯寺の別所(そこには本寺の教学である真言をすてて念仏信仰を営む聖が住んでいた)に対してさらに新しい別所という意味からつけられたものと考えられる。

 『三輪上人行状』の冒頭に、「夫(そ)れ徳の幽明に通じるものは、之を聖と謂い、慈の尊卑を被(おお)ふものは、之を仁と謂ふ。彼の仁と慈は、誰か性とせざらんや。三輪上人は、鎮西の人なり。俗姓は藤原氏なり(今の島津殿は末孫なり)。初め和州の安部別処に住す」と記される。右にみえる「聖」は人間の行為のなかで至高のものとされる徳(善を行ない、人望をあつめている状態)が絶大で、幽(冥土)と明(現世)に通じるものをさしていて、平安時代の浄土願生者の〝聖〟を直接さしていない。

 聖は聖人とも記され、聖人は栄西(ようさい)の『出家大綱』に「世間ニ僧人ノ遁世スル者ノ有リ、之ヲ聖人ト号ス」と記されるように、既成の退廃した寺院や教団を不満としてそこを脱出し、別の場所で新たな宗教生活に入った僧をさす。遁世のもとの意味は、篤信者が発心して俗界を離れ、寺院や教団に入ることであったが、『出家大綱』における用例では寺院や教団から脱出することを意味しており、平安時代仏教界での新しい一つの傾向を示すものである。

 〝聖〟の性格を理解するために例をあげると、『今昔物語集』(巻一五の一四)に「醍醐ニ観幸入寺ト云フ僧有ケリ(中略)。堅ク道心発(オコ)リニケレバ、本寺ヲ去テ忽ニ土佐国ニ行テ。偏ニ名聞利養ヲ棄テ、聖人ニ成テ年来(トシゴロ)行ヒケルニ(中略)沐浴シテ浄キ衣ヲ着テ念仏ヲ始メ唱ヘテ終夜居タリ」と記され、聖人(ひじり)が既成寺院を脱出した念仏僧であることを物語る。

 僧千観はもと三井寺(大津市)の僧で、内供奉の僧として宮廷の内道場で講義や法会に出仕し、顕密兼学の僧であったが、空也聖にすすめられて遁世し、『阿弥陀和讃』を作り、人びとに唱えさせた(『古今著聞集』)。千観は簔尾(箕面)にこもって念仏を修し(『山家最略記』)、世人から「箕山ノ貴キ〝聖〟」と呼ばれた(『金竜寺縁起』)。『梁塵秘抄』に〝聖〟の住所として著名なものをあげているなかに箕面の地がみえるが、千観はその箕面の〝聖〟にあたる。

 『梁塵秘抄』に「岩屋におはす〝聖〟」や「柴の庵におはす〝聖〟」らの好むものとして「松茸・平茸・滑薄、さては池に宿る蓮の這根、芹根・蓴菜・牛蒡・河骨・うち蕨・土筆」をあげており、また〝聖〟の服装や持ちものとして「木の節、鹿角、鹿の皮、蓑笠・錫杖・木欒子・火打笥、岩屋の苔の皮」を記しており、これらは荘園からの収入にささえられた既成教団の僧の生活との相違を示すものとして注目される。

 〝聖〟らの生活は山間で得られる食物のほか、乞食(こつじき)に依存したことは、空也聖が「市中乞食」し(『空也誅』)、三輪上人が「乞食斗藪」したと伝えられ(『三輪上人行状』)、天王寺瑠璃聖が「乞食聖」と記されるのによって知られ(『発心集』)、これらは錦織新別所における覚明房の修行生活を推測するのに参考となる。