平安時代以後、近世にいたる間、天皇・上皇・院・貴族・武士・僧侶・文人らが高野山に参詣し、それを記録した御幸記や参詣記が残っており、それらの記録によってその時代の弘法大師信仰や高野山霊場信仰を知ることができる。
富田林市域は磯長に近く、太子信仰の影響が強くおよんだ地域であるが、南方に高野山があり、弘法大師信仰や高野山霊場信仰の隆盛にともなう高野山参詣のための街道が、本市域を通過していることにも注意しておかねばならない。
参詣記にあらわれたコースを左に分類しよう。
(1)南都・南海道経由 藤原道長がとったコースである。空海や拝堂(東寺長者)、白河上皇らのようにこれに近いコースをとるものも多かった。
〔治安三年一〇月一七日〕京都―宇治―東大寺(宿)、〔一八日〕東大寺―興福寺―元興寺―大安寺―法蓮寺―山田寺(宿)、〔一九日〕本元興寺―橘寺―龍門寺(二泊)、〔二一日〕金剛峯寺(宿)、〔二三日〕奥院供養、大寺(宿)、〔二四日〕高野政所(宿)、〔二五日〕前常陸介維時宅(宿)、〔二六日〕法隆寺、〔二七日〕道明寺(宿)、〔二八日〕四天王寺―国府大渡で乗船―〔二九日〕―田簔橋―江口―〔三〇日〕(淀川遡行)山崎下船―関外院(宿)、〔一一月一日〕法成寺
このコースは、大和の諸寺はもとより、そのほか河内や摂津の寺まで巡回しており、参詣記は高野山だけでなくそれらの諸寺の史料としても注目される。
(2)舟の利用と高野・粉河コース 藤原頼通の高野参詣は、平安朝の参詣における白眉といわれる。
〔永承三年一〇月一一日〕京都―(舟行)―淀―石清浜上陸―曽根仮屋(和泉市)―日根野(宿)、〔一三日〕紀伊市仮屋―高野政所(宿)、〔一四日〕奥院着、〔一五日〕奥院供養、〔一六日〕御影堂―高野政所(宿)、〔一七日〕(紀の川舟行)妹山嬂山―粉河寺―市宿(宿)、〔一八日〕和歌浦―笠道山―日根野(宿)、〔一九日〕四天王寺―(淀川遡行)、〔二〇日〕入洛
この参詣では往復に船を利用したことや、紀州粉河寺にも参詣に立ち寄ったことなどが特徴となっている。頼通の高野・粉河寺参詣にならったものに藤原師実(永保元年二月)藤原忠実(天養元年二月)の高野参詣がある。
(3)宇治・奈良コース 寛治二年二月の白河上皇の高野参詣のコースで、これは白河・鳥羽両上皇参詣の典型的なコースである。
〔二二日〕京都-深草―平等院―東大寺(東南院宿)、〔二三日〕東大寺―山階寺―火打崎(宿)、〔二六日〕大鳥居―中院(宿)、〔二七日〕奥院供養、〔二八日〕御影堂、薬師堂、三服松―高野政所(宿)、〔二九日〕火打崎(宿)、〔三〇日〕法隆寺―薬師寺―東大寺(東南院宿)、〔三月一日〕帰洛
右は主に一一世紀から一二世紀初頭にかけての高野山参詣路であるが、一二世紀になると高野山までの途中の社寺参詣を省略し、したがって日数も縮小される。その代表的な例は嘉応元年の後白河上皇の参詣で、三月一三日に出発し、同夜四天王寺に宿泊し、翌一四日には高野政所に到着し、一五日に中院に入り、一八日下山、一九日四天王寺、二〇日清盛邸、二一日還御となっている。
以上の参詣が半ばリクリエーションを兼ねた参詣であるのに対して、高野山での参籠・修行を目的とする登山があった。大御室性信(三条院第四皇子)、中御室覚行(白河院第三皇子)、高野御室覚性(同第四皇子)、花蔵院宮聖恵(同第五皇子)、紫金胎寺御室覚性(鳥羽院第五皇子)、喜多院御室守覚(後白河院第二皇子)、後高野御室道徳(同第八皇子)ら代々の法親王であり、その参詣は院とその一族の高野山に対する関心と帰依が知られる。そのうちで最も代表的なのは高野御室と呼ばれる覚性法親王が白河・鳥羽両院の御幸に供奉した場合で、そのほかには主として単独の場合が多く、山に参籠するのが常で、登山のコース、経路、所要日数にも摂関家や院のそれとかなりの相違がみられた。
(イ)御室仁和寺から桂川、淀川、大阪湾を通り、途中で上陸して和泉山脈を越え、再び紀の川を利用し政所に着くという海川利用を主にするものである。
(ロ)久安四年閏六月のさいのごとく、〔一〇日〕出発(舟行)―窪津荘上陸―松原荘(宿)、〔一一日〕石瀬(千早口)―高野政所(宿)、〔一二日〕笠木中院庵室というように、大坂東部を縦断し、途中から東高野街道を利用する。また親王は高野政所を通らずに紀の川と天野を結ぶ最短コースである三谷―天野道を利用することが多かった。
このほか、平安時代には高野参詣道として京都と高野を結ぶ最短コースの東高野街道が成立した。
(ハ)桂川または大阪街道を南下し、宇治川と木津川の合流点(国道御幸橋)を渡り、石清水八幡宮の東麓を南下し、その後直ちに河内に抜けて生駒、信貴山西麓、高安、石川を通り、道明寺・古市・富田林・河内長野を経て紀見峠を越えるコースである。
(ニ)この東高野街道に対し、西高野街道が開かれ、これは現在では大阪や堺と高野を結ぶ街道で、河内長野で東高野街道に合流する。
(ホ)有田川沿いの高野・花園街道が比較的早く開かれていた。
(ヘ)高野下・不動坂経由の高野街道があり、中世にはこれらを含めて七つの登山口ができあがった(和田昭夫「平安時代の高野山参詣記について」『印度学仏教学研究』一五―二)。
これらのうちで、何といっても本市域と関係するのは(ハ)の東高野街道と(ニ)の西高野街道であろう。西高野街道を通れば聖徳太子ゆかりの四天王寺があるし、東高野街道を通ればやはり太子ゆかりの磯長谷がある。空海が太子廟前で弘仁元年(八一〇)八月に百日参籠したことに示されるように、太子信仰と大師信仰は共存しうるものだったのである。また和泉槇尾山は大師剃髪の場でもあり、その近くの天野山は女人高野であるから、天野街道もにぎわったであろう。こうした信仰の道はただたんに参詣路としてだけではなく、人が移動すれば物資移動するから、商業の路でもあったともいえよう。
最後に信仰と交通路で考えておかねばならないのは、山岳信仰の路である。本市域の東に位置する葛城・金剛の山系は、古来山岳信仰の山として有名であった。この山系には麓の民が祭典や雨乞いのために登る多くの信仰の山が散在した。これを修行路として結びつけ、二八宿としたのは法華持経者である。二八宿はすべて経塚であり、写経と埋経が葛城修験の内容であった。当初は天台宗系が占拠するが、高野山行人方(ぎょうにんがた)や天野山長床衆(山伏)も入山するようになった(五来重『近畿の霊山と修験道』)。二八宿は(561)のようになっている。
第一宿 友ケ島 | 第十一宿 龍宿山七興寺 | 第二十一宿 金剛山転法輪寺 |
第二宿 西庄神福寺 | 第十二宿 神野正楽寺 | 第二十二宿 水越経塚 |
第三宿 大福山 | 第十三宿 鎌ノタワ | 第二十三宿 櫛羅経塚 |
第四宿 滝畑山中入江宿 | 第十四宿 光滝寺 | 第二十四宿 平石峠経塚 |
第五宿 今畑多聞寺 | 第十五宿 岩涌山岩涌寺 | 第二十五宿 神下山高貴寺 |
第六宿 神通畑 | 第十六宿 流谷金剛童子 | 第二十六宿 岩屋窟 |
第七宿 粉河寺 | 第十七宿 天見不動 | 第二十七宿 二上山 |
第八宿 燈明嶽犬鳴山七宝滝寺 | 第十八宿 岩瀬経塚 | 第二十八宿 亀瀬 |
第九宿 金剛童子 | 第十九宿 大沢寺 | |
第十宿 牛滝山大威徳寺 | 第二十宿 石寺 |
これらは江戸末期の復原で問題点がある(五来重『前掲書』)とはいえ、二上・葛城・金剛・岩湧をつなぐ修行路は確実で、それとほぼ平行して走る東高野街道との間には、おそらく何本もの連絡路がもうけられたにちがいない。