式内社の制度

834 ~ 836

祈年祭にあたって、朝廷から幣帛を与える制度は、前述のように奈良時代を通じて、徐々に成立してきた。年の始めに稲の稔りの豊かなことを神に祈るのは、農耕の開始頃にまでその起源をさかのぼらせうるであろう。したがって祈年祭に類似した祭祀が、朝廷内で行なわれたのも古い起源を持つと考えられる。

 しかし朝廷内で行なわれる祈年祭にあたり、諸国の神社に幣帛を与え、朝廷内の神祇官と諸国の神社を結びつけようとすることは、そう古い起源を持つものではない。日本における神とは本来自然神が中心であって、人格神の観念は、奈良時代に入って表面化してくるものである(直木孝次郎『日本古代の氏族と天皇』)。律令制の本格的な展開のみられる奈良時代初期に、神を祭る信仰に質的な転化がみられる。国家がいかなる場合にせよ、諸国の神社に幣帛を与える事例は、大化改新以前には史料の上からは検出できない。これらの事を考え合わせれば、祈年祭に諸国の神社に奉幣することは、古くとも律令制開始以前には、さかのぼりえない。一方、現存する『養老令』の「神祇令」には、「祈年祭」の語がみえるから、律令制とともに成立したものと考えられる。律令制の成立と同時に、神祇官は諸国の神社の組織化に着手し、その手段とされたものが祈年祭の幣帛分与であったと考えられる。

 つぎに幣帛を受ける諸国の神社側の対応は、どうであったのかを調べてみよう。我われはよく「官幣大社とか「式内社」とかという神社を見かけるので、さぞ諸国の神社も先を争って、国家の幣帛を受けたことだろうと思いがちである。ところが事実はそうではない。『類聚三代格』の貞観一〇年(八六八)六月二八日付の太政官符が引用する宝亀六年(七七五)の官符には、つぎのようにある。

幣を頒(わか)つの日、祝部参らず。今より以後、更に然るを得ざれ。若し悛(あらた)めざれば宜しく早く解替すべし。

全国から神祇官に集合し、幣帛を受けるはずの神官が参集しないので、もし改めない神官がいれば解任せよという内容である。前に引用した延暦一七年の命令と合わせ考えれば、諸国の神官は幣帛の受領を重視していなかったといえる。同じ貞観一〇年の太政官符が引用しているもう一通の弘仁八年(八一七)の官符も宝亀六年のものと同様の内容である。

 そこで国家は貞観一七年(八七五)三月二八日「まさに税帳大帳朝集等の使に、諸社の受けざる祈年・月次(つきなみ)・新嘗(にいなめ)等の祭の幣帛を附して送るべし」と命じた(『類聚三代格』)。諸国の神社が受取りにこなかった幣帛を、各国の使者を通じ送付することにしたのである。国家の側では「二月祈年・六月十二月月次・十一月新嘗祭等は、国家の大事なり」(『類聚三代格』寛平五年三月二日太政官符)と強調するが、諸国の神社の側ではそれほどの重大事とは考えていなかったのである。

 式内社の制度は、国家が神祇官を通じて、諸国の神社を把握してゆこうとするものである。これに類似した制度には、神に位階や勲階を与える制度がある。神に位階を与えた最も早い例は、天平三年(七三一)一二月二〇日に越前国の気比神に、従三位が与えられたものである(『新抄格勅符抄』)。勲階の初見は宝亀二年(七七一)一〇月一六日条の「越前国従四位下勲六等釼神」である(『続日本紀』)。位階や勲階を与えることは、幣帛を与える以上に直接的に国家と神社を結びつけることである。この制度も式内社同様に、奈良時代を通じ、次第に成立したものであろう。『類聚三代格』の嘉祥四年(八五一)正月二七日の太政官符が引用する嘉祥三年の官符によれば、

天下大小諸神、或はもと官社に預かる、或は未だ公簿に載せざる、有位は一階を増し、無位は新たに六位に叙す。唯、大社并びに名神は無位と云うと雖も、従五位下を授け奉る。

とある。元より官社であった神社、まだ公簿には記されていないが新たに官社となった神社について、従来から位を持っていたものについては一階をあげ、無位のものについてはすべてを六位に叙したのである。さらに大社や名神のようなものについては、従五位下に叙した。つまり平安時代初期に、官社にはすべて位階が与えられたのである。この官社というのは、通常式内社の前身と考えられているが、その実体はよくわかっていない。ただ寛平五年(八九三)には、その数は全国で五五八社しかなかった(『類聚三代格』寛平五年三月二日太政官符)。式内社総数の約五分一にあたる。