すでに述べたように、式内社の制度は、律令制の展開とともに成立し、国家が諸国の神社を組織=統制しようとするものであった。それでは諸国の式内社を始めとする神社と、民衆の関係はどのようになっているのだろうか。『続日本紀』神亀二年(七二五)七月二〇日条には
諸国の神祇の社内に多く穢臭(えしゅう)あり、及び雑畜を放てり。敬神の礼、豈に是の如くならんや。
とある。神社には穢れた臭いがただよい、いろいろの動物が放ち飼いされているというのである。さらに同書宝亀七年(七七六)四月一二日条には、つぎのように記されている。
諸社修せず、人畜損穢し、春秋の祀(まつり)また多く怠慢せり。
諸神社は飾ることもなく、人びとや動物の汚すままになっており、春秋の祭りも行なわれていないという。荒れはてて祭りもなくなった神社の風景が目に浮ぶようであるが、事実はそうではない。『類聚三代格』寛平五年(八九三)三月二日官符は、よくこれらの事情を物語っている。
特に潔斎(けっさい)を致し、慎んで祭祀せしむ。而るに敬惟(けいい)は踈簡、礼は在る如くに非ず。祭日に至る毎に、姦濫(かんらん)雲集して、幣帛を献ずるに至っては、老少拏(う)ち攫(う)つ。徒(いたず)らに陳設の営あるも、曽(かつ)て供神の実なし。
特別に精進潔斎して神を祭るのが、国家の側からみた祭りなのである。それを諸国の神社では粗略にし、儀式などないに等しいとしている。このように神社は、国家にとってはつねに神を祭る場として、整備しておかねばならない場所だったのである。しかし諸国の神社にとってはそうではない。春や秋の祭日になると民衆は、神社に群集して老も若きも勝手に幣を振り、自由に神に祈っている。国家側からすれば「供神の実なし」とみえる事態も、民衆にとってはまさに「祭日」だったのである。『大日本古文書』に収められた天平神護二年(七六六)の「越前国足羽郡大領生江臣東人解」には「神社の春の祭礼に依り、酔い伏して」とある。国家の側では「慎んで祭祀せしむ」日である春や秋の祭りは、郡司や民衆にとっては「酔い伏して」束の間の解放感を味わう日であったといえる。民衆の神へのこのような信仰形態を背景とすればこそ、諸国の神官たちが祈年祭の幣帛受領に不熱心であった事情もよく理解されよう。