式内社を始めとする神社を信奉する主体のもうひとつは、在地豪族である。いうまでもなく律令体制は公地公民制を原則としたが、徐々にしか前代以来の血縁または擬似血縁を中心とした氏姓制を変えることは、できなかったであろう。この血縁または擬似的な血縁の集団の中核をなすものが、在地豪族であった。在地豪族は、律令原則の公地公民制が展開するのにともない、かつて血縁ないし擬似的血縁として支配していた人びとを、新たな形で支配せざるをえなくなったのである。
こうした事情は、中央貴族の場合も同様であった。かつて中央の豪族と地方豪族ならびに民衆を結びつけていた血縁の絆が、なくなってしまったのである。この変化とともに、元来氏の守護神あるいは霊威神として祭られてきた氏の神にも、変化があらわれる。氏の祖先を氏の神として、祭るようになったのである(津田左右吉『古事記及び日本書紀の研究』)。中央貴族の祖先神崇拝は、おそらく地方豪族にも影響を与えたであろう。ことに朝廷に近い畿内の地方豪族は、早くその影響を受けたであろうが、各地方豪族たちの祖先神が民衆の信仰の対象となりえたかどうかは疑問である。むしろ古くから民衆とともに祭ってきた自然神に、自己の祖先神を合わせ祭る形をとったであろう。
ただこうして自己の祖先を神として、合祀の形であれ神社に祭った場合には、各地方豪族にとっては、その神社の格づけには深い関心を払わざるをえなかったであろう。式内社の制度や、位階勲階を与えられることは、この場合には大きな意味があったといえる。
しかし律令体制自体の動揺とともに、これらの制度は次第に意味を失なっていくのである。