富田林市竜泉八八六に所在している。嶽山中腹の龍泉寺の境内に隣接し、明治四二年に咸古佐備神社を合祀した。
咸古神社は、前述のように石川郡内でも重視されているが、現存の所在地が本来の所在地であったとは考えにくい。神社の名称からみても、大化前代に設置された紺口県と深い関連のある神社であろう。紺口県の範囲をどうみるかに問題はあっても、現存地の佐備谷がその中心であったとは考えられない。佐備谷を含むとしても、中心地は東条川ぞいの谷に求めるのが妥当であろう。とすれば咸古神社も現在地よりは、東条川ぞいに所在地を推定すべきである。このような見解はすでに明治時代にも吉田東伍によって主張され、彼は河南町寛弘寺を本来の鎮座地とした(『大日本地名辞書』)。
寛弘寺の裏の山からは、東条川ぞいの谷が見渡せ、古墳も数基存在する。紺口県の支配者の紺口県主の本拠地にふさわしい場所である。ここに咸古神社の本来の所在地を求めても、さしつかえなかろう。
祭神は神八井耳命とされるが、これは『新撰姓氏録』が紺口県主を「志貴県主同祖。神八井耳命之後也」とするのに対応している。紺口県主の祖先神であるが、祖先神の信仰は既述のように時代がくだる。紺口県主の祖先神というよりも、紺口県全体の守護神として、紺口県主の一族を中心に信仰された神社と考えた方がよい。