富田林市佐備四六七に所在する。創建時よりおそらく場所の移動はなかったであろう。
神社の所在地は、金剛山より派生する一支脈の最北端ともいうべき位置にある。この支脈は標高二七八メートルの嶽山を含み、嶽山以北は低平な丘陵である。現在は神社付近に人家が多いが、人家がなければ嶽山を直接に望みうる。嶽山の山容は見る角度により異なるが、この神社からみれば、左右対称のなだらかな独立丘にみえる。古来こうした山容は神奈備形といわれ、神の宿る山とされた場合が多い。神奈備と同じ訓の甘南備は、嶽山の南南東約二キロの地名であるが、嶽山一帯を神奈備とよんだ名残りではなかろうか。
佐備神社について度会延経の『神名牒考証』に「今、佐備村に在り、神挾日命。旧事紀に云ふ、天忍日命、亦、神挾日命と云ふ」とあり、佐備は『和名抄』に石川郡の郷名としてみえる。佐備神社について『特撰神名牒』に「今、按社伝、祭神天ノ太玉ノ命、相殿春日ノ大神、松尾ノ大神とあれど如何あらん。注進状に所レ祭未レ詳とあるぞ正しかるべき。河内志に上梁文曰、河内ノ国石川郡東条・佐備ノ村高園宮、文安元年十二月二十三日とあり、かかれば本社を高園宮とも云りしにや」といい、祭日は六月一日と九月九日で、村社と記される。
祭神は「神挾日命」とも「天太玉尊」とも「松尾大神」ともいう。「松尾大神」は神酒を造る神であるが、「天太玉尊」や「松尾大神」は、後世に神社の由緒を持たせるための造作の可能性が高い。本来は嶽山を神体とするような自然神崇拝に起源をもつ神社であろう。なお神社と佐備川で距てられた丘陵上には、板持丸山をはじめとする数基の古墳がある。古墳上からも神社を通して嶽山を望むことができる。この古墳の被葬者を中心とする集団によって祭られてきた神社であろう。前項の咸古佐備神社の設置は、おそらくこの集団を意識してのことではなかろうか。