<美具久留御魂神社>

844 ~ 848

富田林市宮町三丁目二〇五三に鎮座する。『文徳実録』嘉祥三年(八五〇)一二月癸酉三〇日条に「河内国の和尓(爾)神の階を進め、従五位上を加ふ。堤・津嶋女の神には従五位下なり」と記され、伴信友の『神名牒考証』は美具久留御魂神社の項で『日本書紀』(崇神紀)に「山川の水泳御魂(みくくりのみたま)」とあり、『河内志』に「美具久留御魂神、嘉祥三年十二月に従五位上を授けらる。喜志村和爾池の西に在り。一名、和爾神社なり。今、下水分の祠(ほこら)と称す」(原漢文)と記されることをあげている。『特撰神名牒』にも美具久留御魂神社の項をみると、祭神は美具久留御魂神で「今按、美具久留御魂神は崇神紀六十年丹波氷上人、名永香戸辺が小兒の神託の言に、山河之水泳御魂とある同言なるによりて思ふに、水を掌る神を称へ奉るにて、水分神・龗神を祭れるにやあらむ。仁徳紀に十三年十月造和爾池、築横野堤とみえ、此神社の和爾池の西にますも由あり。又、神名牒考証に祭神水分神と云るも由ありて聞ゆればなり」といい、さらに「今按、文徳実録に和爾神とあれば美具久留御魂神と別神の如く聞ゆれど、河内志に一名和爾神社と記し、又、此神の和爾の池の側に鎮座ますも由あり。和爾神の神社の他に求むべき地なきを以ても、此神なること著ければ、和爾神、美具久留御玉神と定めて記せり」といい、祭日は六月と九月の一五日で、社格は郷社と記している。

 平安初期に各地の神社に位階を授けることがしばしば行なわれるが、富田林市内の神社についていえば、この美具久留御魂神社に嘉祥三年従五位上を授けたことが最も古い。大阪府神道青年会編『大阪府神社名鑑』に当社の祭神として美具久留御魂神・天水分神・弥都波廼売神(みづはのめがみ)・国水分神・須勢理比売神をあげ、祭日は四月一五日と記す。

 神社の現在地は、石川の西方を南北に長く伸びる羽曳野丘陵の、東の縁にあたる。丘陵はこの東縁部でかなりの傾斜をもち、石川の形成した河岸段丘の平地部につながる。神社本殿は、丘陵の突端に位置し、神社からの眺望は非常によい。石川と佐備川の合流点や、石川と東条川の合流点を含め、広範囲を見渡しうる。背後の丘陵は、現在開発されて、数多くの住宅が建てられているが、かつては真名井ガ原と呼ばれていた。神社の境内にもいくつかの古墳があるが、神社に南接する隣山の頂上には、真名井古墳があった(北野耕平「富田林真名井古墳」『河内における古墳の調査』)。また本殿から東方を見おろすと、石川との中間に大きな粟ケ池がみえる。この池を『日本書紀』仁徳天皇一三年一〇月条の「和珥池を造る」の「和珥池」とする説もある。これについてはすでに述べたところである(第一章第一節「丸邇池の築造」)。

 祭神は美具久留御魂神であることは、疑えない。軍神・農工商の守護神・縁結びの神とされているが、むしろ水神として、真名井古墳の被葬者を頂点とする集団に、古くから信仰されていたものであろう。

 ところで美具久留御魂神社の名は珍しい。美具久留はミククルと読み、川筋を(海から)さかのぼって山間の溪流にまで憑(よ)り来ませるという意味であり、御魂は神霊をさすと解されている(水野祐『古代の出雲』)。

567 美具久留御魂神社(水の神の神社・富田林市)

 ミククルの語は『書紀』の崇神天皇六〇年七月一四日条における氷香戸辺(ひかとべ)の小兒の神託物語にみえ、『書紀』のこのあたりの記載は、出雲国造が大和朝廷の政権に帰伏し、大和政権から出雲国造(こくぞう)としての地位をさずけられたとき、国造家は出雲における大己貴命(おおなむち)を祭る祭祀権をも付与された。すなわち崇神天皇は出雲大社の神宝を見たいと考え、使者の武諸隅(たけもろすみ)を遣わし、献上させようとした。ときに出雲振根(ふるね)が神宝をつかさどっており、彼は筑紫国に出かけて不在であった。振根の弟の飯入根(いいいりね)は弟と子をして神宝を武諸隅にたてまつらせた。筑紫から帰った振根は弟が勝手に献上したとして怒り、殺そうとはかり、渕のほとりで弟を殺したが、朝廷は吉備津彦(きびつひこ)と武渟河別(たけぬなかわわけ)を遣わし、振根を誅(ころ)し、出雲臣らはこの事件によって朝廷を恐れ、出雲大神(大己貴命)を祭らないでいた。ところが丹波国の氷上(ひかみ)(兵庫県氷上郡氷上町付近)の人の氷香戸辺が皇太子の活目尊(いくめのみこと)に、私の子(小兒)が神がかりしてつぎのように託宣した、と奏上した。託宣は、

玉菨鎮石。出雲人祭、真種之甘美鏡。押羽振、甘美御神、底宝御宝主。山河之水泳御魂。静挂甘美御神、底宝御宝主也。

というのである。そこで皇太子が天皇にこの託宣を奏上すると、天皇は勅を出して出雲臣ら出雲大神を祭(いわいまつ)らしめた。

 この託宣の内容は難解の最たるものといわれ、本居宣長・鈴木重胤・飯田武御・伴信友らが解釈を出しており、たとえば宣長は「すべての意は、神宝の至極長なる鏡と玉とを以て、出雲臣これを祭るへしとなり」と解している(『玉勝間』四)。

 水野祐氏は託宣を前段(玉菨鎮石……甘美御神、底宝御宝主也)と後段(山河……底宝御宝主也)とに分け、その訓は、

タマモシヅカシ。イヅモビトノマツル。マタネノ。ウマシカガミ。オシハブレ。ウマシミカミノ。ソコツタカラ。ミタカラヌシ。(前段)

ヤマカハノ。ミククルミタマ。シヅメカケヨ。ウマシカミノ。ソコツタカラ。タカラヌシ。(後段)

であるとし、その意義は、

出雲国の此所彼所の神聖なる川の流れに生ひ繁れる美しき川藻、それを採りて出雲人等は出雲大神の祭をする。その川藻の痩果は恰も白銅なる真澄鏡の如くにて吾が神霊の憑代とならむから、流のまにまにゆらゆらと振りて吾が御魂を招き祭れよ。出雲大神の神宝の主司たる汝出雲臣よ。(前段)

かく言ふ吾は出雲の大神なれば、吾が御魂は海底より遙々千尋の海路を潜り、山河の清き流れをも潜りて、吾が御魂の鎮まらむ所を求ぎきし和爾形の神にてあれば、とく吾が御魂を清浄なる厳藻に招き承けて神殿に斎け。出雲大神の神宝の主司たる汝出雲臣よ。(後段)

と解釈された(『前掲書』)。

 ここにみえる「ミククルミタマ」は、直接に本社の祭神と一致するものではないが、本社の創建伝承のひとつに、出雲系の神である大国主命の荒御玉を祀ったとするものもあり、あえて詳述した。